第1部 政子狂乱録

三 亀の前の厄難

この頼朝の生死を分けた石橋山の戦いの様子は、『源平盛衰記』に詳しく述べられている。

敗軍の頼朝は土肥実平など僅かな兵と、しとどの岩屋の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。

頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう、戦に勝ったときは(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出たあと、蝙蝠(こうもり)ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ、入ればただではおかぬ」と詰め寄った。

大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得たのである。

頼朝の一命を救った梶原景時はのち、鎌倉幕府の宿老として重んじられるが、義経に不義ありと讒言(ざんげん)して失脚の原因を作ったのも彼である。それからは木曽義仲の挙兵などを経て、頼朝は鎌倉の地に居を構えることになる。

平清盛はその翌年、頼朝を助命したことに無念の涙を流しながら死去(享年六十四歳)しており、さしもの平氏政権にも終末が近づいていた。

その翌年、政子は男子を懐妊した。後に二代将軍となる長男頼家である。

当時のお産は決して楽なものではなく、安産を「平産」と呼び、平産に匹敵するほどの死産があった。そのため、政子は妊娠がわかった後、着帯をし御産所まで設けて、夫の閨急ぎに対しては“夜の戦なぞ問題外”とケンもほろろで側にも近づけない。

正論だけで、男の生理的欲求など思いやる女ではなかった。

“女性が元気の素”の頼朝にしてみれば、それでは当然身がもたない。彼は生来の女好きで、とても旺盛な精力を抑えられる男ではない。政子との結婚前も人妻を始め何人もの女と継続的に情を通じていて、伊東祐親の娘、八重には千鶴という男子まで設けているし、武蔵の葛西清重の宅ではその妻女を枕席に召しているほどだ。

頼家を懐妊中、頼朝は政子に内緒で亀の前という女性を寵愛していた。故事の通り“英雄色を好む”であり、いかに貴公子然として優しそうな風貌を持つ頼朝も同様に色を好んだのである。