一九七〇年 夏~秋

5 家出​

「ほれとさっきから気いになんりょんじゃけんど、マッちゃんおまはん、口を手で押さえとるんは、歯がどなんぞしたんで」

逸美叔母さんが母の口元を見ながら聞きました。

「コケて折れたんよ。時間がのうてほのままにしとる」

母は手で隠した口をもごつかせます。父に殴られて前歯を折られたのでした。

「政夫はんにやられたんとちゃうん」
「土間の敷居につまづいてコケただけじゃけん。ほこい石臼が置いちゃあって、まともにもっていてひもたんよ」
「ならええんじゃけんど。なんにせえ、はよ治さな人すけないでえな。うちの行っきょる歯医者はん紹介しょうか」
「ほらありがたいけんど。ほこって保険きくん」
「きくよ。ほなけんど前歯はええん入れといたらどうなん。保険の歯は石がすぐに黄色うなるでえな。うちみたようにセラミックでしてくれるように頼んだぎょうか」

逸美叔母さんは見事に揃った貝殻みたいな歯を見せました。

「ほれってなんぼするん」
「一本十万くらいかな」

大卒の初任給が四万円ほどの時代です。この時の母の驚きと落胆は想像に難(かた)くありません。

「ほなおまはんの歯は全部で……、車が何台も買えるんとちゃうん」

母が頭の中で算盤(そろばん)を弾いています。

「なんぼやったかいな。忘れてもうたけんど、安うかったよ」
「うちは保険の歯でええけん。ほなになんべんも通えんし。保険もたまには使わなんだらもったいないでえな」

風邪一つひいたことのない医者いらずの母でした。

「ほなまあ、ほうゆうといたげるわ」

逸美叔母さんは急に興味を失ったように、あとでまた迎えにくると言い残して去って行きます。翌日、母は逸美叔母さんの紹介してくれた歯医者へ行って、誰が見ても不細工な歯を入れてきました。将来私が歯科医になったとき、その同業者は二代目に代わっていましたが、歯科医院過剰の時代で経営が苦しくなり、間もなく診療報酬の不正請求で捕まって廃業することになりました。

子連れの居候となった母は、旅館の手伝いを自ら申し出ます。早朝から深夜まで、泊まり客たちの世話に奔走(ほんそう)しはじめました。借り物の和服にたすき掛(が)けが、母によく似合っていました。

私の夏休みはあと一週間ほどになっていました。二人の従姉妹とは、彼女たちが習い事に出て留守がちなため、あまり遊びませんでした。私は黴臭い三畳間に腹這い、裸電球の明かりを頼りに、本ばかり読んで過ごしており、『江戸川乱歩』のシリーズを全部やっつけてしまいます。

ここに来てから母はたくさんの本を買ってくれました。蝦蟇口(がまぐち)の留め金を開けて「これで本買うてき」と、四つに折った五百円札を握らせてくれるのでした。いつにない大盤振舞(おおばんぶるまい)に喜んだ私は、新学期になってもこのまま学校へ行かなくてすめばいいのにと思っていました。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。