一九七〇年 夏~秋

5 家出​

そんな所へ、旅館で板前をしている近藤清せい次じ さんが、珍しく私に会いに来ました。何かと思えば、「よかったら遊びに行けへんか」と誘ってくれます。暇を持て余していた私は一も二もなく応じました。

「映画でも観に行かんで」

近藤さんが寝癖頭を掻きながら言います。彼はまだ二十歳やそこらの青年で、高校を卒業してこの旅館に雇われていました。私とは時々漫画本の貸し借りをする仲でした。

近藤さんのサニーに乗せられて、駅前商店街の中にある映画館へ行きました。盆商戦が終わって人通りのまばらなアーケードを歩いて行くと、映画館は少し離れて二軒あり、私は東宝の『ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃』を観たかったのですが、近藤さんが私を連れて入ったのは、『昭和残侠伝 死んで貰います』の方でした。入場券は近藤さんが買ってくれました。

暗幕をめくって薄暗い会場へ入ると、客は数人しか入っておらず、煙草の煙が狼煙のように立ち昇っています。映画はすでにはじまっており、銀幕では役者たちが大立ち回りを演じていました。途中から観たので筋もわからず退屈でしたが、派手に斬り合うシーンだけは迫力満点でした。映画が終わって明かりが点いても、近藤さんは感じ入ったように動こうとしません。トイレに行きたくなった私は、「すぐに戻るけん」と席を立ちました。

トイレには先客がいました。私は用を足しながら、その男を見て腰を抜かしそうになりました。まず鼻と耳がありませんでした。骸骨みたいな顔には、髪の毛も眉毛も睫(まつげ)も生えていません。頭の横に骨の陥没(かんぼつ)があり、頬から顎にかけて生々しい縫い目が走っています。眼窩(がんか)から半分飛び出した目玉は、傷んだ魚のように濁っていました。

開襟シャツの胸元と腕に青黒い入れ墨が広がっています。猫背の身体からは饐(す)えたにおいを漂わせていました。

男がこちらを見ました。

「ふまんら」


鼻に抜ける声で話しかけてきます。

「ほんらかおれ」


すまんなこんなかおで、と言ったのでした。

「へらうっへあひいひひゃられたんら」


へたうってあにいにやられた、と短く切られた舌を動かします。吐く息からは樟脳(しょうのう)のにおいがしました。

私は愛想(あいそ)笑いを返すのが精一杯で、ズボンに小便を散らしてしまいました。男がへらへら笑いながらチャックを上げ、ゴム草履(ぞうり)の片足を引きずって洗面台へ歩き、勢いよく水を出して手洗いをはじめました。

白い陶器に赤い物が散っています。男は血のついた手を洗っているのでした。

「はららたっへよえはんひばいたった」
はらがたってよめはんをしばいた、と男が呟(つぶ)やくのを聞いた私は、母を殴る父の姿を思い浮かべ、どんな男も女を殴るものなのだなと思いました。すると急に久子を殴ってやりたくなりました。私は久子の使用人になどなりたくなかったし、母を旅館でなど働かせたくありませんでした。そうできるのなら、さっき観た映画の主人公と同様、私は暴力を振るう大人になってもかまわないと思いました。しかし、私はまだ身体に十分な力を蓄えていませんでした。

※本記事は、2020年4月刊行の書籍『金の顔』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。