第一章 二〇〇七年、飛騨支局勤務 

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そんな常連客の中に、若い女性の歯科医で版画家でもある吉行香澄がいた。香澄は東京の版画家団体の新人賞を受賞したのをきっかけに、飛騨でも大いに注目され始め、高山市内で個展も開いていた。

元々は緑川が診てもらっている歯科医の娘で、最初は父親と一緒にユキに来ていたのだが、今では父親よりも熱心に通っていた。髪はベリーショートで痩せて目ばかり大きく小柄な外見だったので、女一人で酒を飲んでいるというより、生意気な男子中学生が酒を飲んでいるような感じだった。

四月下旬のある時、その吉行香澄が作品の次のテーマの話をして、白川郷の田植えとか祭りとか、暮らしの中の様々な『(ゆい)』の場面を描いてみたいと言ったのだった。すると緑川はわが意を得たりというように反応して

「香澄ちゃん、さすがだ。いいテーマを見つけたね。ユイっていうのは村人同士の無償の労働のやり取りのことで、都会の個人主義とは正反対の世界だからね。合掌造りの大屋根を村人総出で葺き替えたり、田植えしたりするのが、ユイとして有名だけど、他にもいろいろなユイがあの村には張り巡らされている。それに、他にも白川郷は知れば知るほど凄みがあるよ。じっくり腰を据えて描くといい。きっと素晴らしい版画シリーズが出来る」

身を乗り出して話すのだった。篠原はそれを聞くと、緑川が白川郷のどこに凄みを感じているのか知りたくなった。篠原は、

「白川郷の凄みって、ユイの他にはやっぱりあの合掌造りの建物のことですか?」

緑川と香澄の間に割って入って尋ねた。