遥かな幻想曲

一年続いたあの旅は忘れられないね。地味なロードムービーに仕上げてさ、二人でソファに並んでさ、コーヒー飲みながら観るの。もうあれから八年ね。廉、ありがとう。

暖かい朝に和枝レッスン室のピアノの譜面台に立てかけられていた、シューマン「幻想曲(ファンタジー)」原典版の楽譜。表紙を開くと、扉ページとの間に一筆箋の短い手紙が挟まれていた。

主題ハ長調

みなとみらい

次のゲートもその次も「満車」の赤ランプは続き、のろのろ運転のまま、ランドマークタワーを大きくぐるりと一周していた。やっとのことでクイーンズスクエア横浜の地下駐車場に潜り、車を停めると、その先はみなとみらい線に乗り新高島駅に向かう。

二〇〇九年十一月下旬の日曜日の昼下がり、平林廉と和枝にとっては、久しぶりの夫婦二人だけのお出かけだった。そう、「お出かけ」という表現がしっくりくる、わくわく愉しい、ちょっと記憶に残るひととき。今思えば、この時が「旅」の始まりだった。

新高島駅から地上に上がり、一歩ごとに硬いリズムを腰に送ってくる石畳の歩道を、左脚に麻痺がある廉は注意深く進む。廉は生後まもなくミルクを受け付けない症状が現れて、郷里新潟のN大学病院で幽門狭窄症と診断された。百日目には開腹手術を受け一命は取り留めたが、少し体が動かせるようになってくると、今度は別の懸案が見つかった。左半身、特に脚部に麻痺が見られたのだ。小学一年生の夏、廉は小児療育センターに入院した。

運動機能を改善するための一年がかりの治療が始まり、内翻(ないほん)(そく)を矯正するギプスを装着したり、股関節の可動域を広げるための手術を受けたりした。検査と治療を繰り返す少年期から、青年期へと成長しても、廉の左脚の麻痺が消える日はついにやって来なかった。ただ日常生活で不自由を感じることはなく、スポーツも臆せずやってきた。

四十八歳になった今でも、とりわけスキー愛は人並み以上と言えた。少し行くと四つ角の角地に「濱中インポート」の看板を掲げたレンガ色のビルが建っていた。ウェルカムボードには「新高島ピアノサロン2F」と書かれていて、来意を告げるとすぐに二階に案内された。

和枝が「ピアノの購入を考えているのですが」と、予約を入れておいたのだった。

展示されているグランドピアノは二台きりで、いずれもドイツ・ハンブルク工場製の中古スタインウェイだった。こぢんまりした方のO型は窓辺に置かれ、うそ寒い冬の陽をカーテン越しに浴びている。一方の見るからに大きいB型は、天井がドーム形にデザインされた、店内の「一等地」に据えられていた。