井上は純太に顎で教室の後ろを示した。教室に遅れて入ってきた純太は教室の一番後ろに立っていなければならない。井上の許可が出るまで。井上の眼鏡の奥に光った視線を感じた時、純太の体が反応した。腹がキュルキュルと痛んだ。また腹が痛くなった。今度は肛門がじわじわと危ない。

「先生」

ベルトあたりをぎゅっと掴むと

「腹が、トイレ行っていいですか」

とやっとの思いで言った。教室に爆笑に近い笑いが起こった。その時、額に何かがピュッと当たった。

「痛っ」

思わず額に手を当てた。脂汗がにじんでいた額に置いた指先に白いチョークの粉と小さく赤い血のようなものが付いた。教室がざわついたり、話し声が起こったりすると井上は持っているチョークを投げる。効果はいつもてき面でおしゃべりで騒がしくなった教室は一瞬、緊張で静まり返る。

私語が始まると壁や床にチョークを投げるというこの井上の悪癖は生徒の間では有名だ。いつまでもねちねちとした説教はない代わりに、一瞬の恐怖で生徒たちを抑え込む。柔道の技で言えば一本投げって事か。その時も、一瞬の緊張が教室に走った。

それが、今日は壁や床ではなく運悪く後ろに立っていた純太の額に命中した。今まで生徒に投げつけられた事は一度もなかった。今日はたまたま運悪くコントロールが乱れたようだった。生徒たちも井上もさっきの騒ぎの後のせいか、一瞬動揺したようだった。だが、井上は冷静な声で

「前田、医務室で手当てしてもらってこい」

と言った。流石に、井上も少しは気にしているようだ。こんな様子が動画にでも撮られたら今の時代では即アウトだ。教師の生徒に対する体罰は有無を言わさず禁止されている。チョーク投げが生徒たちの間で学校生活の懐かしい思い出になる時代は過ぎたのだ。教員生活の長い井上にはまだ理解ができないでいた。

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