私の家から更に坂をしばらく上ったところに石材店を継ぐ予定の、お父さんの妹夫婦の山口家があった。そこには私より8歳上のひとり娘、桃子姉ちゃんがいた。

その家はとにかく楽しかった。おじちゃんもおばちゃんもすごく面白い。なんでもかんでも笑わせてくる。いつも笑いに満ちた家族だった。私の家と違っていつも笑っていられる、このいとこ(厳密に言うとはとこ)の家が大好きだった。

幼稚園に上がる前の2歳の頃、私が家からいなくなったことがあるそうだ。どこを探してもいない。家にもいない、近所にもいない、どこに行ったのか、警察に届けようか。

まさかと思ってその山口家に電話すると「ここで遊んでるよ~」と。2歳の子供がまさか10~15分もかかる道を覚えていてひとりで歩いていくなんて誰も思わなかったと言われた。

私の記憶にはないが、よっぽどいとこの家で遊びたかったのだろう。いとこの家は、いつも太陽のように明るく、笑顔に満ちて、心地良い家だった。

お母さんは全てにおいて厳しく、食べ物にも厳しかったから、インスタント食品やレトルト類など一度も食べたことがなかったが、山口家ではそれを食べさせてもらえた。これがまた美味しいのだ。

いつも山口家に行くと「ちゅるちゅる食べさせて~」とお願いしてインスタントラーメンを食べさせてもらったり、ポテトチップスを食べさせてもらったりしていた。

よく泊まりにも行っていて、新田家と違って、いつも夜はみんなでトランプをしたりゲームをしたり、夜景を見にドライブに行ったりしていた。小さな一戸建てだったが、楽しい思い出がいっぱい詰まった家だった。

私は近くの保育園に通っていた。が、不思議と記憶はほとんどない。先生が優しくて綺麗だったことだけ覚えている。

そしてその保育園内の花壇をみんなで散歩している時、土の中からミミズが出てきて、先生がミミズを棒に引っかけてみんなに見せていた。

くねくね動くのがとても怖くて泣いたことだけ覚えている。

そして3歳くらいから幼稚園に通い始めた。私より早く通っていた子達は既に友達がいたりして、羨ましかった。よく考えると私の家庭環境では私以外はみんなとても年上か大人ばかりで、同じ年頃の子供はいなかった。

だからどうやって同じ年の友達と接すればいいのかよくわからなかったし、厳しく静かな家で過ごしていた私は、みんなのようにはしゃいだりふざけたりうまくできなかった。思ったことをポンポン口に出せる子供ではなかった。

それでも次第に友達もでき、普通にみんなと遊べるようになっていった。

幼稚園は、お寺が沢山並んでいる寺町の方にある、坂を下ってしばらく歩いて、また階段を上っていった上にある、お寺の中にある幼稚園だった。

お父さんが市役所への出勤前に一緒に私を送っていってくれていた。長崎の道は狭いので車との距離が近く危ない。だからいつもお父さんの手に引かれて歩いていた。

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