(五)

痛覚を自在に操ることができる男、痛喪力異能力者、井上真(いのうえまこと)三五歳、会社員

一足先にもう注射を終えた子供は、涙をこらえながらも、じっと井上を見つめている。先に苦難を乗り越えて今や余裕に満ちた地位にある者として、これから同じ苦難を受けざるを得ないために、恐怖におびえて引きつった顔をしている井上の状況を見て、さらには、これから実際に同じ苦難を味わう時の井上の苦しみの表情と、その後の痛みに耐えかねて流すであろう井上の涙を見て、しばしの優越感に浸ろうとしているのである。その時に、

「痛いだろ。でも俺は平気だったぜ」と、上から目線で掛ける言葉まで用意している。

しかるに、井上は、注射までの表情は確かに恐怖におびえているのであるが、それも注射直前の一瞬のことであり、実際に注射をしている時も、注射を打ち終わった後も、平然としているのである。

これには、先に注射を終えた子供は、苦難に苦しみ抜いた者として、しばしの優越感に浸ろうとしたのに、その期待を奪われて、落胆の底に沈むこととなる。そして、それが、井上だけ痛くない注射をしてもらったのではないか、ひいきされているのではないか、という疑念と妬みに生まれ変わり、だんだんと井上に対する攻撃の引き金となっていくこととなる。

井上の次の順番の子供は、来たるべき自分の注射の際の心構えをしておこうと、一生懸命、井上の様子を見ている。井上の表情や反応を見て、本当に痛いのかどうか、痛いとすれば、一体、どのくらい痛いのだろうかを知りたいのである。というか、井上の表情や反応から得た情報を活かして、次の自分の番の覚悟を決めようとしているのである。

そして、見ていると、井上は注射の瞬間もその後も平然としているので、これは全く痛くないのだなと思い、安心してしまうのである。そして、実際に自分の順番となり、全く痛くないことを予想して、平気で腕を差し出すと、注射の針が刺さった瞬間、電気ショックのような痛みが走り、思わず、「痛いっ!」と大きな声が出てしまうのである。そして、その痛みは針が抜かれて、針の刺さっていた所から血が出てくるのを見て、また襲ってくる。そして、涙が出てくるのである。

その予想していなかった突然の痛みを受けることになったことや、みんなの前で痛いと叫んで醜態をさらしてしまったことが、何の罪もない井上に対するやり場のない怒りとなり、井上に対する攻撃の端緒となってしまうのである。

「井上のは何だったんだ? あいつのだけ、違うんじゃないか? ひょっとすると、我々を騙して陥れるために、痛くないふりをしていたんじゃないのか? ほんとにひどい奴だ」といった具合に、その理不尽な反感は勝手にエスカレートし、井上に対する嫌悪感として蓄積していくのである。