(2)人間の知を積み重ねる本

『幼学綱要』には20の徳目があり、中には「忠節」「貞操」など今の時代には合わないのではないかと思われるような徳目もあります。

しかし、今の時代に合わないからと言って、この本の全てを否定することはできません。

また、反対にこの『幼学綱要』の物語に出てくる人物のような生き方をしなければならない、と言うものでもありません。

物語の主人公たちは、その時代の中でそれぞれの価値観をもって生きてきました。

その価値観を今の時代を生きる私たちが単純に否定することができるのでしょうか。

少なくとも、その時代に生きた人々の価値観、経験、言葉の意味を知ることを止めてしまえば、これまでの人間が積み重ねてきた歴史の時代の先頭に生きている、今の私たちの成長はないように感じます。

そして、歴史の中でこれまで起きてきた同じ過ちが繰り返されるでしょう。

残念ながら人間は、科学や技術が常に最先端の進歩、進化を土台にしてさらなる新しい技術を生み出していく、というように経験を積み上げていくことができません。

人間がどんなに長い歴史を積み、経験が刻まれたとしても、どんな人間も生まれた時の経験値はゼロからのスタートになります。生まれた後に、これまでの歴史や経験を学んでいかなければなりません。

そうなると人間の歴史が積み重なるほど、私たちが学ばなければならない知識が増えていくことになるはずです。

学びを止めてしまうことは、人間としての成長を止めることになります。もっと悪く言えば衰えていくことにも繋がりかねません。

『幼学綱要』には、その人間の歴史が多く刻まれています。それを学ぶことは一人の人間として大きな成長になります。

20の徳目は、とても重要な人間の感情、価値観、生き方の指針となることは間違いありません。

私たちは、この一つ一つの徳目の意味について物語を通して理解することができます。そして人間の生き方を知ることができます。

(3)児童のための本としての位置

この本は児童のための本です。たった百数十年前の子供たちは、この本を学ぶ力があったのです。

今では大人でも読むことができなくなった漢字や熟語を学んでいた子供たちがいたのです。

それを考えると私も含めて、私たちの学びは極端に劣化しているのではないでしょうか。

本当に子供の読み書きに適齢期などあるのでしょうか。子供に個人差はあっても適齢期などは大人の基準で勝手に作ったものではないでしょうか。

幕末の吉田松陰先生は9歳で明倫館という藩の学校の兵学師範に就任し、11歳の時には藩主の前で講義を行っています。

幼児だから小学校低学年だからといって子供の力を全く信じることなく、知らず知らずに大人の価値観や都合で子供の能力に蓋をして、大人が選んだ学びだけを与えてはいないでしょうか。

あまり好ましくはありませんが、小さい子供に携帯電話を常に持たせていれば、自然と勝手に画面を開いて遊ぶようになっています。携帯電話の機能を使いこなすのは無理だといった固定観念は通用しません。

学びにおいても同じことです。幼児だから難しい文字や言葉は理解できないという固定観念が働いていませんか。

子供は知れば知るほど、どんどん知識を吸収する力が元から備わっているはずです。

子供の能力を閉じ込めているのは一番身近な大人たちではないでしょうか。私たちは、もう一度改めて考え直す時期に来ています。