今一つの學校倶樂部のウエタの生活は如何と云ふと、是は大低ユニバシテイ倶樂部の中餐のテーブルに洋食皿を運ぶ給仕位なもので、それでも同倶樂部に無賃で寄宿しながら學校に通學するのであるから、日本では最髙學府を卒業した研究生や農商務省の實業練習生などは僅かの學費しか貰ひない爲め、斯る勞働をしながら學校に通學してゐる人を隨分見受る、而して夫等の人は決して斯る勞働を無論耻とは考ひてゐない、寧ろ誇りのように自己の途に懸命に研究してゐる。

殊にユニバシテイなんかは四箇月餘の夏休暇もあるから、其間に白人邦人の幾多の學生がそれぞれ農園なんかに働いて一と夏に二三百弗の金を蓄い、夫を書籍料や其の他の經費に充てゝゐる。

或る時一週間も長い汽車で、東部の方面に旅行したとき、或る寂びしい人跡も稀れな、小停車場で十五六才位の少年が新聞を賣りに來た、こう云ふ淋しい山中の小(えき)では新聞は何よりの珍物で何れの窓からも新聞を買つてゐる、

そして此小驛では石炭を積むので十分以上の停車であつた、そして其少年が自分の窓近くへ來たので一枚を買ふと同時に、こんな寂寞な山中にゐて新聞賣してゐるより都會に出て苦學したらと笑ひながら云ふと、彼は小學時代から新聞賣をして苦學してゐるので、何れ二三年後には相當の貯金も出來るから、其時は都會に出てハイスクールから、大學へと進むのだと如何にも快濶そうに力むでゐる、

そして靑い澄んだ眸には希望と自信の光が讀まれた、日本の十五六才の少年には全く獨立獨行と云ふ觀念が少ない、一面彼等の家庭が相當の資産家であつても、苦學をさせる事を决して家名とか一族に對する不名譽などゝは考ひてゐない、彼のローズベルト氏の如きは少年、靑年の或る時期迄名門に生れながら中部の山中で好んで百姓の生活をしたそうである。