この雑穀のご飯とみそ汁の食事が家族全員でとった最後の食事になったのです。父は県庁へ出勤するためすぐに家を出て行きました。母と弟とわたしは家の玄関に集まったのです。父が仕事に出るときは家族全員で『いってらっしゃい』と玄関で送り出すのがわたしの家族の慣わしだったからです。

そしてこれがわたしの家族全員が集まる最後の時となったのです。誰一人としてそのことを知らずに。

この日は木曜日でした。わたしは一年前から近くの軍需工場に勤労動員されていましたが、この日が休日だったのです。わたしは長崎市の中心街である賑にぎわい橋ばしから中なか島しま川沿いを歩き幾つもある橋を巡り、近くのお寺巡りもしようと思っていたのです。ですから弟の茶碗を買うために午前十時に城山の自宅を出たのです。

わたしの家でもお客様用の茶碗の用意はありましたが、家人はそれを使わないという不文律があり、弟の茶碗をすぐに買う必要があったからでした。そしてこの時間に家を出たことがわたしの命を救うことになりました。わたしは松山町から路面電車に乗り、長崎の中心街に行き、食器店で弟の気に入りそうなご飯茶碗を買いました。これが午前十時五十分ごろです。

そこから電車に乗らず街なかを賑橋に向かって歩きはじめたのです。ここで電車に乗らなかったこともわたしの命を救いました。あとでわかったことですが、爆心地の浦上から電車の通り道を、原爆の破滅的な爆風が一気に駆け抜けていったからです。

わたしは長崎に来てから異国風なこの街が好きで戦時中にもかかわらず方々を歩き回っていたことで、この街の地理に詳しかったのです。賑橋まで街なかを歩いていくことができたのです。またこの日は蒸し暑かったものの早朝にかかっていた霧も晴れ、空襲警報も先ほど解除されたばかりでした。

もうしばらくは大丈夫だろうと思い、もともとひまわりの大輪のような夏の陽射しを好んでいたこともくわわり、いまのことばでいえばすこしルンルン気分で歩いていたのでした。考えてみれば戦争が激しさを増していてもわたしはまだ十八歳の乙女でした。わたしの若い命はこれから花咲こうとしていました。

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