りょうが細い肩を回し始め

欄間(らんま)を磨いてちょっと、歳ですねえ」

と言った。座敷の鴨居にはめ込んである自然木の欄間を気に入っていて、埃が溜まりやすいのが気になるのか、よく磨く。危ないと言っても、自己責任ですと言って聞かない。欄間に限らず、りょうは家中を磨く。小物にも料理にも、総てにこだわる。

こだわりを塊にしたようなこの家の庭を部屋を物をひたすら掃除するりょうは、自分と同じように何かから逃げているように見えなくもない。あの脱獄犯のように、みんな何かから逃げている。りょうは何から逃げているんだろう。

何ですか? というような顔で、りょうが久の視線を捕らえた。りょうは人から目を逸らせない。と言うより、相手を一所懸命見ると言ったほうが当たっているかもしれない。

「君は茶を飲まないのか」

「さっき、部屋で飲みました」

「茶を飲んで掃除してか。仕事はいつするんだ」

「あなたと違って、私は幸せじゃないと書けませんから」

「君には、幸せな時もあるのか」

「ええ。時々、幸せが来るんです」

さっき花びらと間違えた小さな蝶が庭で舞っている。りょうがそれを柔らかい目で追った。樹の葉がまた、池の周りに落ちた。

「掃いたそばからだな」

「それでいいんです」

ここの窓から見た庭は、別の家の庭みたいねえと言いながら、りょうが出て行った。久が死んでもりょうはこの家を磨き、絵本を描きながら淡々と一人で生き続けるだろうと思った。紅茶はいつもより柔らかい味がした。そう言ってやれば良かったと、少し後悔した。

また、資料に目を落とす。四回も脱獄を繰り返し彼は脱獄王と呼ばれたらしいが、最後は逃げ回るのに疲れ、自分が唯一心を許した刑務官のもとへ、自首のような形で出て来て捕まった。それからは模範囚として府中刑務所で刑期を終えた。網走の厳しさとは違う府中刑務所の温暖な気候が、優しさに飢えていた彼を癒したという。

七十二歳で死ぬまでの後半の彼の人生は穏やかだが、寂しいものだったらしい。

「新村さんからお電話ですよ」

りょうの声がした。

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