時々来る幸せ

書斎の窓から吹く風に潮の匂いが混じる。でもこれはさっき泳いだ自分の身体に残った海の残り香なのかもしれない。ここで暮らし始めてからずっと、夏は海で泳いでいるせいか、潮の匂いを自分の匂いのように感じる時がある。

人間の悲しみには果てがあるが海の悲しみには果てがない。そう言った詩人をふいに思い出した。

「いい歳なんですから。波に飲まれないようにしてくださいね」

りょうは言うが、海から生まれたらしい人間が海に帰るなら、それはそれでいい気もする。

風が原稿を揺らした。さっきから筆が進まないのは今、書こうとしている男の気持ちが掴めないせいだ。

主人公は実在した脱獄犯。貧しさから何人かで盗みを働き、人を殺した罪で捕まったが彼は拷問のせいでそう言わされただけで、自分は殺してはいないと終始、無罪を主張した。大人しくしていればそのうち出られるのだが、横暴な看守や刑務所待遇のひどさを抗議したため、過酷な懲罰を受けたことを契機に、彼は脱獄を繰り返す。

ある時は釘を削ってノミ代わりに床板をくりぬき、茶碗で穴を掘って逃げる。ある時は立ってしかいられない懲罰房を両足で這い上がって、窓から逃げる。身体中の関節を外せるとかで、とにかく奇抜、巧妙な、根気のあるやり方で、脱獄を繰り返す。そのたびに罪は重くなっていく。それでも繰り返す。二十六年の服役中、四回の脱獄、逃亡生活は三年。逃げるたび、刑期は増えるのだが、彼に損得は関係ないらしい。

彼が望むのは、自由、か。

指に触れたトムの目の感触がよぎった。あれは人差し指だった気がするが、親指だったかもしれない。トムは捨て犬で、いつも通る河原の隅に小さなぼろの塊みたいにうずくまっていた。川に落ちたらしく泥だらけだったが、家に帰って洗ったら、茶色の毛をした雄の子犬だった。

「名前をつけましょう。どんな名が好きですか」と父が言い、外国の名がいいと言うと、「じゃ、トムにしましょう」と言った。

「『アンクル・トムの小屋』という本があります、映画にもなりました。トムは黒人奴隷で、優しい男でした。雇い主の子供たちに愛されますが、最後の雇い主は残酷な男で彼は殺されてしまいます。でもトムは殺した男を恨むこともありませんでした。総てを許す彼に磔刑(たっけい)のイエスを重ねる人もいます。この話が奴隷解放運動に影響したと言う人もいます」

そんな話を父は久たちにし、犬の名はトムになった。