9 彎曲

はじめのうちは曲が書けるものである。

スグルは高校1年生から曲を書いているが、今年で4年目。所謂、倦怠感を覚えはじめる時期でもある。俗に言うところのエモいメロディーラインと歌詞を40曲ぐらいは作ってきたが、いずれも初恋のような、憧れのような力によるところが大きかった。

これまでは、ビギナーズラックというべきなのか。この幸運な勢いが最近薄れてきている。変に、知ったかぶりをしたり、(いぶか)しがったり、(わん)(きょく)した表現をしたいと思うようになった。彎曲していることこそが、美しいものだ、と。まあ、簡単にいえば、何もかもが、味気なく感じてしまうのだ。

はじめのうちの曲は案外、年月が経つと味わい深いものとなって、シンプルだけれども、パワフルで変わることがないアーティスト性の一線を色づけるものでもあるのだが、今のスグルにとっては、とてもそんな(りゅう)(ちょう)な感覚にはなれない。

トニック、サード、サブドミナント、セブンス、ディミニッシュとか考えてコード進行を作っていたらありきたりでつまらない。だからといって崩したところで、恰好つけているようになってしまう。まあ、恰好つけていても恰好が良ければ認められてしまう恐ろしい世の中ではあるけれど、新たな1曲がなかなか作れない。

産みの苦しみだとか言うけれども、曲にしたかったことも忘れてしまうぐらい、何かに没頭していないとやってられない心境にもなってくる。そもそも生活習慣を見直さなければならないのではないだろうか。曲がどうのこうのというよりも、心掛けや生活態度が、何かマズいのではないだろうか。

あ~あ、何よりも自分の声が気にくわない。なんか嫌いだ。嫌い嫌い。天はなんでこんな(みにく)い声をぼくに与えたのだろう。もっと生物がよろこびそうな透明感があって、それでいて、感情を癒し、魂を揺さぶって感化することができる声質が良かったなあ。

ぼくの声は、ひどく粘り気があって、変なビブラートが止まらない、なんとも情けない声質だ。野暮ったい。良くて、青春パンクのような路線でなければ、務まらない声だろう。だからといって、熱狂の渦のなかでは、生きていけない性格だし、熱狂? はあ、そんなことを産み出せる力があるのなら、こんな苦労はしてないか。

自分を疑い出したらキリがないことぐらいは知っているけれど、疑いと、自虐、自己否定が止まらない。自己肯定だとか、理性や悟性だとか、感情だとか言っていること事態が、わがままだ。いや、どうせならめちゃくちゃわがままになれた方が、出る杭は打たれるのだから、出過ぎた杭になってしまった方が楽なんだろう。

ふん、出過ぎた杭になることも誰かの紐になって生きていけることも天才がやることだ。そんな才能は残念ながら、このぼくは持ち合わせていない。どうせ将来は週5で嫌々働くサラリーマンになるのだろう。そうか……、心の避難場所がないのか……。まあ、いいや。こういうときは、もう不貞寝(ふてね)だ。寝るに限る。

夢のなかへ、夢のなかへ、異世界だけがぼくを救ってくれるはずだ。果報は寝て待てだとか言われているし、ずいぶん、()・っ・て・も・いるけれど、否、まだまだ足りないのだろうな……。

などと、永遠とむにゅむにゅむにゃむにゃボヤキながら、群青色の布団のなかで、青年は寝てしまった。枕には髪の毛が無造作に散らばり突きささっている。月や星々は、そんな青年に、安らかな子守唄を歌うかのように、光をこぼしていた。

【前回の記事を読む】哲学青年の自問自答「この月も、どこかに帰っているのかもしれない」