寒い冬が終わり、桜の季節になったある夜。

元と妻のヘリは珍しく二人でウノの店にいる。退院して一年が過ぎたが、何の変化もない。その間にあったことと言えば、ヘリが左腕を骨折し、ウノが亡くなった友人の娘を引き取って店を手伝わせていることくらいだった。

休戦から六年。長期政権の大統領、李承晩を政界から追い出して国の成長を促す動きが出ていた。ベトナム戦争は長期化の気配を見せている。韓国の経済は少しずつ上昇し始めていた。

「元さん、どうなのよ。世の中戦争ばかりでいやになっちゃうわ。韓国の兵隊もそのうちベトナムへ行かされるんじゃないの?」

「そうだなあ。一九五五年からもう五年くらいになるかのう。北に目を向けながらアメリカの協力をせにゃならん。大変な事だわい」

「そんな事よりあんた。元気なうちに日本へ行かないと」

とヘリが言う。

「ええのんか。わしが日本へ行けば帰らんかもしれんぞ」

「バカだねぇ。あんたはここにしかおれんよ。もう他では住めない人なのよ」

と自信たっぷりのヘリ。

「ヘリさんも言うわね。羨ましいわ。でもその通りだと思う。元さんは優しいヘリさんを愛してるのはもちろん、この国のことがとても好きなんじゃないの」

友人から引き取った娘、ペソンが焼酎のおかわりを元のもとへ運んだ。

「そうかもしれない。あの時は皆が親切にしてくれた。ウノさんは私を信用してヘリを紹介してくれたし、兵舎の仕事を見つけてくれたのも近くの方だ。率直で少々きつい言葉を受けることもあるが、それは心に裏がないという証だろう。ここまで生きてこれたのも皆さん、いえ、この国のお陰かもしれない」

「あなた、だったら故郷にある武君や奥様、息子さんの墓参りに行くべきだと思う。元じゃなくて椋木として。経費は心配しないでいいわ。あなたが良くしてくれたのと、ソウルにいる私の息子や娘が『元さんには長い間お世話になったから』って結構なお金を送ってよこしてるわ。私たちは真剣に言っているのよ。無理はしなくていいけど」

「では、ヘリも行ってくれるのかい?」

「私はダメよ。亡き奥様やお兄様の前でどうすれば良いのよ。解ってちょうだい」

気が付けば夜の十時になっていた。随分と話し込んだものだ。ヘリと二人外へ出た。頭上には満天の星。『東の空の下には日本があるのだ』一九六〇年四月の夜のことだった。

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