プロローグ

島根県益田(ますだ)市西部の漁師町に住む椋木(むくのき)一家の戸主、椋木芳蔵(よしぞう)と息子の弘はある年の早春に船を出したが戻っては来なかった。

弘は妻のすずのおなかに子供をやどしていたのだった。二人が帰らぬまま、すずは出産を果たし「武」と名付けた。

前編

早春の真っ青な空には何もない。

男はその空へ向かって煙を吹き出した。

四十九歳になっている。武の父、弘は生きていた。

「やはりソウルよりプサンの空気がうまいなあ」

一人つぶやき、港を後にした。

「ママ、(ウォン)じいさんのお見舞いに行くの?」

ユジンは、武の祖父(芳蔵)だと知ってから元じいさんとの交流を続けていたのだが、つい先頃、元じいさんが入院した。

彼女は時々、身寄りの少ない彼のために、ひ孫であるサンマンを連れて見舞いに行く。いつも花を持って。ユジンが今日も花を買ったので、サンマンはそう思ったのだ。

「そうよ。元じいさんはサンマンが来ると、とても嬉しいのよ」

「そう。おじいさんは優しいから好きだ! それにお小遣いももらえるし」

「あら、そっちが目的なのかしら」

元は七十四歳になっていた。時々胸が痛み、咳も出る。思い切り息を吸うことが難しくなってきた。『世間で言うところの癌かな。俺も歳だし、そろそろかもしれない。ユジンは良くしてくれるし、カミさんも優しい。幸福なのかもしれない。サンマン……可愛いひ孫だ』

彼は最近よく郷里の事を思い出す。キクの笑顔、弘との漁、すずの突き出たお腹……武。あいつ(弘)は本当に死んだのだろうか?

漂着して三日間は意識がなく、手厚い看護の末、ようやく意識を取り戻した。その翌日、弘を運んだという軍へ問い合わせると、合同墓地へ連れて行かれた。そこで『饅頭』みたいな盛り土を指差しながら「彼はこの下に埋葬した」と言われ、『日本人漂着者』と、かすかに読める札を確認した。

「椋木弘と添えてください」とお願いをして帰ったが、してくれたかどうか。状況が状況だけに、生きることに必死で長い間忘れていた。もし弘が生きているならば、武に会わせてやりたかったと思ったが、その武はすでに他界しているのだった。