プロローグ

結婚前に初めて生駒の部屋を訪れたときも、北側に位置するここは書斎になっていた。「俺の仕事部屋に勝手に入るな、なんてアホなことは言わないから安心して。興味を惹かれたら、いつでも読んでいいよ。もっとも、どうせ、専門書しかないからなあ」と言われ、少し癪に障った記憶があるが、実際、一緒に住むようになってからも掃除する目的で入るだけだった。

案の定、いまも智洋には関心の持てないタイトルばかり。ん? ITをマネージメントにどう生かす云々……これだったら、もしかしたらビギナー向けといえるかも。でも、経営のカテゴリーだろう。パソコンの初歩的な使い方には役立たない。やっぱりムチャな要求だ……。

智洋は、数年前に自分が読んだガイドブックを思い浮かべた。しかし、わたしはマッキントッシュ、マダムはウインドウズ……ダメだ。それでも、久しぶりに夫の書棚を隅から隅まで眺めた。マダムには恩がある……。

ふと、『ビル・ゲイツが大統領になる日』のタイトルが目に入った。コンピューターの本なのか? わかんない。こんな本、あったかしら。これがスティーブ・ジョブスなら、わたしに薦めないわけがない。でも、ビル・ゲイツといえば、ウインドウズを世に出した会社のトップ。その人が大統領に? 興味を惹かれた。

ビギナー向けの使い方ガイドでは、おそらくないはずだ。マダムの役には立たない。そうは思いつつ、手に取ってみた。

ページの間から何かが落ちた。一枚の、紙のような。手に取った。写真? モノクロで、ピンボケみたい。どうやら、写っているのは人物の、背中。振り返ろうとしている? 若い女みたい。顔は、判別できない。メガネを掛けているのはわかった。タートルネックらしきセーターに、ミニのスカートのような姿。胸の形は明らか、だから女に間違いはない。とすると、髪はショート。建物。アパートかな。外階段。上ろうとしているのか、たぶん……よくわからない。

ポーズをとっていない。そもそも、ピントが合っていない。撮影者は勝手に、隠れて、シャッターを切ったのかもしれない。写真自体は明らかに古い。ずいぶん昔のもの。それなら、生駒さんの若いとき。いや、夫が撮影したのかも不明だけど……もしかしたら、昔のカノジョかも。裏返した。何も書かれていない。

智洋は、夫への武器になるかもしれないと、その写真を見つめた。

二回り以上も年上の夫に、理屈では勝てない。知識も経験も豊富で多岐に渡っていて、やむを得ないことだが、ハタチを過ぎたばかりの、社会に出て働いたことのほとんどない智洋は、まるで敵わない。それが嫌だと思ったわけではない。夫は、勝ち誇った顔はする。癪に触る。

でも、女のくせに、といったような、ハラスメント的な、セリフは、まったく口にしない。女を下に見ているわけでもない。フェアなひとだ。

それでも、ちょっとは何か言い返したい、見返したいという感情は否定できない。あのひとの昔の女、かも。からかえる。たまには、鬼の首を取ってやろう……。