生駒は、前夜、遅く帰宅した。素面だったが、疲れているように見えた。武士の情けだ、今夜はやめておこう……。

朝食の際に「そういえば」と、さりげなく切り出す……。

生駒は、智洋の想定外の反応を見せた。狼狽。珍しく、いや、出会ってから初めてではないか、あんな、しどろもどろの生駒さんは。「昔のカノジョさん?」の一言がダメを押した。生駒は、黙り込んだ。「大切な思い出なのね」。ダメ押しの二乗だったのか。

だけど、ちょっとからかっただけ……。なのに、気まずい雰囲気になってしまった。夫は出掛ける用意のため、そそくさと寝室へと引っ込んだ。あとはジャケットを選ぶだけなのに、なかなか出てこない。智洋は、掛ける言葉を見つけられなかった。朝食の後片付けの手を止めたまま、椅子から立ち上がれなかった。

このままではマズイ。何とかしなきゃ……智洋は玄関へ急ぎ、ドアを開けた。春とはいえ、朝はまだ寒い。が、さすがに三月も中旬に差し掛かっていて、声に出すほどでもなかった。右手で扉を抑えながら背後に夫を感じた。

咄嗟に言葉が口をついた。これで、少しだけでも空気が変わればと期待した。自分でも、なかなかイイ表現だと思った。

しかし、夫はついに言葉を発することなく出掛けていってしまった。おでこへの軽いキスも、なし。結婚以来の習慣が消えた。いつかは、なくなるものだろう、でも、こんなに、あっさり、予想外の流れで、途切れてしまうものなのか……。

皿洗いを終えた智洋は、洗濯機を回した。洗濯漕の中の渦を眺めながら、納得いかないと反芻した。

昔の女? だとしても昔のことじゃん。いまさら、あんな写真が出てきたからといって、それがなんなの? あのひとの昔のこと、あんまり詳しくは知らないけど。結婚歴はないみたいだけど。そりゃ、四十年も五十年も生きていれば恋愛のひとつやふたつ、いえ、三つでも四つでもいいけど、ないのが不思議。不自然。生きるだ死ぬだの大恋愛だって……。

写真をずっと持っていたというのは、ちょっぴりショックだけど、でも、それにしたって、あのひとの大切な思い出なのだとしたら、べつに……そう? 本当に、そうか。智洋は自問した。

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※本記事は、2022年5月刊行の書籍『再会。またふたたびの……』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。