第一章

二〇〇〇年、春。東京大森。

大地から「永遠」が再来するように新しい花々が二十四(にじゅうし)節気(せっき)清明(せいめい)にその命を輝かす、四月のある平日の午後四時。白鳥(しらとり)和子(かずこ)は東京の下町大森にある彦坂一郎の事務所を初めて訪れていた。遺言書作成の相談であった。

和子は都心の街、四谷にある司法書士会館まで足を運び、司法書士名簿を閲覧し、和子の住む区で開業している百名ほどの司法書士のなかから彦坂一郎の名前を見いだし、ある偶然の一致に強く心をうごかされ、彦坂の事務所を訪れたのだった。

「わたしの全財産をわたしの死後すべて換金し、ある公益団体に寄附してほしいのです。そのためにはわたしの遺言を執行してくれる専門家が必要です。あなたにこの役目を引き受けていただきたいのです」と、和子は言った。

「なぜ、初対面の僕にでしょうか?」

すると和子は大きな澄んだ瞳でニコッと微笑み、

「それはあなたが信頼できる方だと直感したからです。そしてあなたの名前がとても素敵な名前だからです」と、言った。

「えっ? 僕の名前が。『彦坂一郎』は平凡な名前だと思うのですが……。一郎は全国に掃いても捨て切れないほどいるし、彦坂もぼくの田舎では余るほどいます」

すかさず和子は彦坂に尋ねた。

「彦坂さんのご出身はどちらですか?」

「愛知の渥美半島です」

和子は眩暈(めまい)がするように一瞬何かを思い、さらに尋ねた。

「その半島はどんな土地でしょうか?」

彦坂は、なぜそんなことを聞くのだろうと思いつつ、答えた。

「僕の生まれた土地は黒潮の海流に近く、温暖で、群青(ぐんじょう)の太平洋が見える土地です。浜辺に立つといつも潮騒(しおさい)(とどろ)きがしています」

すると和子は大きな瞳で彦坂を見つめ、

「群青の海が見えるのですか、潮騒がきこえるのですか。その土地で彦坂一郎さんは生まれたのですね。わたしもいつかその半島に行ってみたいです」

と、言ったのだった。歳をとっていても清楚な姿をした和子は、彦坂を見つめながらも、同時に心はどこか遠い日の情景を見ているような、ふしぎな視線であった。

彦坂に和子の依頼を拒否する理由は何もなかった。彦坂は高齢であるが和子の清楚な美しさに打たれながら、奇妙なことをいう婦人だとも思いつつ、遺言書原案の作成と、遺言執行者の指名を受けることになった。