涙を超えて

帰宅してからの和枝は一日、一日元気を増していった。咳や痰が酷くはなく体調もそこそこ安定していることもあるが、全身に良い気がみなぎっているのが側に居るだけで伝わってきた。

ネットスーパーで食材を注文したり、通信状態が悪くなった電話の子機の修理依頼をしたり、晩ご飯のメニューをあれこれ考えたり、気の付いたところからパッパッとこなしていく。

ピアノももちろん弾いた。本人としては何の気なしに弾く指ならしのスケールなのだろうが、スタインウェイの響きにわが家が息を吹き返した。

ただ、今回新しく投与された薬の副反応がはっきり出始めた。

そのひとつは脱毛。

和枝は帰った日からとても気にして、家の中で使い捨てのヘアキャップを被り始めた。

そして呟く。

「廉、これは仕方のないことだよね。ごめんね、そう思ってくれる」

その言葉を聞いた翌日、廉の出社前に、ウイッグを選びに藤沢駅前の専門店に行った。

姉の真咲にも来てもらった。

居心地の良い美容院みたいな店内に、形も色もさまざまなウイッグが並ぶ。

基本はナイロン八〇%+人毛二〇%のものとナイロン四〇%+人毛六〇%の二種類。

サンプル品を十種類ほど試着したが、やはりぴたっとくるものは見つかるものだ。

色合いは和枝の髪よりやや淡いが、形は和枝そのものというものに出会った。和枝も洋服を選ぶように、何となく楽しみながら選んでいた。費用は二十三万円、三週間後受け取りの予約を入れた。

ウイッグのオーダーを「これも治療に伴う避けられないプロセス」という風に考えたら苦しくなるだけ。

とても似合っていたし、素敵なサンプルに出会ったときの和枝の笑顔は最高だった。

体力を保とうとK大構内を散歩するのと同じことで、今回のウイッグ選びも、和枝を元気にする大切なプロセスなのだと廉は思った。小さなことかもしれないが。

もうひとつの副反応はやはりしびれだった。高井先生も気遣ってくれていた厄介者だ。

和枝は入院後数カ月は治療の経過を日々ノートに記録していたが、ウイッグを買いに行った日の記述の末尾にはこうある。

《しびれあり。ピアノを弾くとき違和感》

しびれは全身に広がりつつあって、起きて活動しているときはさほど気にならないが、寝るとはっきり自覚症状が出てきて、眠っていられなくなるのだそうだ。