帰宅生活は瞬く間に過ぎた。

遥はママの指導により、溜まった通信教育の添削の返送にようやくめどが立ったし、練習中のシューベルト「即興曲第4番」、ショパンのエチュード「エオリアンハープ」にも目鼻が付いてきた。

廉は夜勤明けで「疲れた~」を連発しているので、和枝に「じゃあ、私が頑張るしかない」という気持ちにさせている節はある。

でもそれは和枝の体にとって悪いことばかりではない。廉はこのごろそんな風にも感じていた。

「病気なんだからとにかく安静にしていて」ではダメなのだ。栄養をつけて、こまめに働き、よく考える。そんな和枝が頼もしく見える。

七月、八月、九月と、がんという病気の底知れぬ威圧感に、和枝も廉も確かに怖じ気づいていた。

治療しているはずの薬に、健康な細胞まで蝕まれていく現実に絶望したりもした。

でも今は少しずつではあるけれど、冷静に身の回りのことに目が向けられるようにもなってきた。そして少なくとも、今回の帰宅期間中に和枝と廉が、二人手を取り合って泣くようなことはなくなっていた。

不安や恐れる感情が鈍磨したわけではない。それはむしろ日々研ぎ澄まされてきている。

ただそれとは別に、家族三人で長く幸せに生きていく足がかりを、今回初めて実感できたのだった。

二クール目の治療の日々を和枝は淡々と過ごしていた。

仕事が休みの廉は、数時間前に届いたメールをまた読み返していた。

「治療するために生きているんじゃないよ。生き続けるために治療しているんだよ(笑)」

床に散らばったシャツやタオルを拾い上げ、浴室に持っていき、深夜にもかかわらず洗濯機の始動ボタンを押す。

リビングに戻ると、つけっぱなしのテレビには、インタビューを受ける歌舞伎役者の坂東玉三郎が映っていた。

「仕事を、人生をどんな風に捉えていますか」

「遠い先のことは考えない。明日だけを考えています。きょう明日を充実させることに尽きる。それが自分の人生を創っていってくれる」

翌日の土曜日、遥が廉に「英語教えて」と頼んできた。

中一では文法は習わないんだっけ? と疑ってしまうほど、とにかく構文をまるで理解していなくて、教えようがなかった。

ところが十行くらいの問答形式の英文を見つけ、試しに訳させてみたら、これが面白いことになった。

「Your T-shirt is very nice.」には「ユーのTシャツ、イケてるじゃん」、そして「Is your father a photograher?」には「おたくの父さん、写真家ってこと?」と、アジな訳文をつけてきた。

全く理解していないわけではなかったのだ。さらに廉の笑いを取ることも忘れていない遥の発想が愉快だった。「どうせやるなら楽しもう」というところは、和枝に似たのだろうなと思った。

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※本記事は、2021年9月刊行の書籍『遥かな幻想曲』(幻冬舎メディアコンサルティング)より一部を抜粋し、再編集したものです。