全逓と私の歴史

権利の全逓→五三一〇(ゴーサントウ)合理化反対闘争→反マル生闘争→大量処分→労使協調路線→全郵政と統一→JP(郵政グループ)労働組合に

全逓(ぜんてい)加入後、私たちの職場の東京鉄道郵便局に一九七八(昭和五三)年一〇月(ゴーサントウ)、東京鉄郵の分局廃止合理化が郵政省から示されました。全逓(ぜんてい)はその撤回を求め全国順法闘争を行いましたが、廃止撤回はなりませんでした。

反マル生闘争

闘争終結に組合員は納得せず、長年にわたり差別に苦しんでいる全国の全逓(ぜんてい)の仲間が、本部に郵政省のマル生政策の変更を要請。本部も「全逓(ぜんてい)組合員は昇任・昇格・希望配転などで差別されている。差別撤回、労務政策を改めること」を要求し反マル生闘争を実施しました。年賀状の配達に混乱を来すほどの順法闘争に発展しました。組合役員は「現場で目に見えるような結果を出すようにする」といった話をしました。

また、「今までの役員指導者は重い処分を受けているが、現場で組合の指導に従っている人たちは重い処分はなされない」との現場役員の話でした。

結果は差別撤回、労務政策は改められず、逆に一九七九(昭和五四)年四月二八日、四・二八処分で懲戒免職五八人(東京五五人は一般参加者、三人は地方役員で暴力行為理由)・解雇三人・停職二八六人・減給一四六四人・戒告一三六三人、訓告五〇〇九人の合計八一八三人の全逓(ぜんてい)組合員に大量処分が発令されました。

四・二八処分撤回裁判闘争

懲戒免職処分された池田実さんは、裁判で勝利し職場復帰しました。郵政退職後、福島の原発作業員になり本、『福島原発作業員の記』を出されました。鹿児島県の薩摩川内市(川内原発の地)で原発反対団体が主催した池田さんの講演があり、私も参加しました。終了後、主催者と池田さんと私の三人で交流し友達になりました。

池田さんいわく、免職後「全逓(ぜんてい)の支援の一四年、支援打ち切り後一四年間は草履を売ったりして自力で収入を確保した。しかし、一番つらかったのは職場復帰してからで、この仕事が一番大変だった。時が経ち仲間もいなくなっていて、集配の仕事は若い人に頭を下げて一から教えてもらわないといけなかった」とのことでした。

四・二八で懲戒免職された人たち七人(池田さん含む)が裁判を起こし、二〇〇四年東京高裁で勝利判決が出されました。その後二〇〇七年二月最高裁で上告不受理により高裁勝利判決が確定し、職場復帰されました。

宮崎県での暴力行為で管理者を負傷させたとして懲戒免職になった組合役員がいました。その同じ管理者が鹿児島に来た時、「その管理者はわざと転んで暴力をでっちあげる“転びや”です。注意してください」と事前に連絡があったのに鹿児島でも転ばれてしまい、組合支部書記長が分限免職になりました。

一九八六(昭和六一)年一〇月、鉄道郵便局は廃止されました。