二宮守のほうとしては、妹と来栖の双方を最初に引き合わせたのは自分であって、それがきっかけで二人は何がしかの親しみを覚え始めたはずだと思い込んでしまっている。『遺書』を受け取らせようとした際に守が取った態度を思い起こして、来栖はやっと気づいた。

彼の立場としては『遺書』を受け取り、その場で前半を読んだ限りで出てくるのは、贔屓目に見ても多少の哀惜の情ぐらいでしかなかった。このことはもうはっきりしている。生前の彼女に恋愛感情を持っていたなどというようなことは、その当時、思いもよらないことだった。

生きていた頃の百合について特別に印象に残っているようなことがあるとすると、それはやはり彼女のまなざしから呼び起こされるものだけだった。寂しげだというのでもない、何か物事を諦めてしまっている風情というと少し言い過ぎだ。初対面の折の百合の印象はといえば他の全てはぼやけたままで、彼女のまなざしだけが何かを意味しているようだった。このことだけは今でもはっきりと思い起こせる。

まなざしとは言ったものの、彼女が何かを見やるときの、その視線の先をたどっていくと、どこを見ているのかも定かではない。そのような彼女を見ていたことはあっても彼女に注目するようなことはなかったはずだ。

シューベルトのソナタが演奏され、それに続いての茶話会で彼女を注視するようなことになったのが唯一の例外だったはずだ。百合のイメージというものを改めて思い起こそうとしても、そこはかとなく前を見ているたたずまいで現れるだけだ。視線の先に何か具体的な対象を捉えているようでもない。彼にはそのような印象しか残っていなかった。

彼女についてのこのような印象は彼だけのものではないようだった。彼女に近しかったと思える人から同様の印象を受けると一度ならず聞いたこともある。彼女とたまたま対座するようなことになった相手のほうは、おおよそ共通してそのような印象を持つようだった。

生前の百合のことをたまたま思い出す時など、対照的なタイプだという先入観を持ってしまっていたのか、百合の控え目といったまなざしを、真理の燃えるような眼光から出てくる圧倒的な力と比べていた。百合のほうは話し相手と視線を交えることを極力避けようとするのが殆ど習い性になっていたようだった。

その視線の動きと、真理が話し相手を見据えるように構え、決して視線をそらそうとはしない目の動きとを来栖は比較していた。それも手で触れることのできる生身の人間を目の前にしてということではなく、二人共にその眼を中心にイメージとして浮かんでくる姿を相互に比べている。対比の表現を用いれば、その華に対するに寂、自意識過多の美の表白に対するに、控えめな態度に終始する凡のたたずまいという構図である。

このように真理と比較する形で出てくる百合の印象はというと、当然彼の脳裏には強く焼きつくものもなく、彼女の存在も忘れ去られていくのが自然のなりゆきだった。

ところがそうはならないことがでてきた。恋愛感情が少しなりと来栖のほうからもあったのかどうかということは念頭から追い払っても、彼女の『遺書』なるものを見せられて何度か最後まで読み返してからは、百合のことを真剣に想い起こそうとしている。もっともそのような時でも彼女の面影は写真に写っている百合、躍動感のない肖像画上の百合というイメージのままだった。

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