【前回の記事を読む】甘やかしではない?「サボる子ども」を見届けるべき正当な理由

自分の都合で「子ども」を見るな

「教育者」のなかで、指導する「子ども」に対して、自分の思い通りに指導することを良しとする人をよく見かけます。「教育する」ということは、教育する側の何らかの関わりによってその相手により良い変化を起こすことですから、その方法はさまざまであっていいと思いますが、時に自己陶酔したかのように自分の考えをやたら前面に出すことで自らの教育力を保とうとする教育者に出会うことがあるのです。

私はそんな教育者に出会ったとき、「その子どもの力は本当にそれで最大限生かされているのだろうか」と疑問に感じます。私は常々、どんな教育者でも、その教育者一人の考えや見識、思考や判断力はたかが知れたものだと思っています。どんな一流選手や成績優秀者を育てる教育者でも、この点についてはしっかり認識すべきです。

それでは、どうしたら一人の「人」としての「子ども」を育てられるのかというと、私は「子どもの教育者」は一貫してアドバイザーに徹するべきだと思っています。つまり、何を教えられたかではなく、「子ども」がどうその思いを自らの力で実現できるように「教育者」が関われたか、なのです。これは見方によっては「教育する」ことから逃げているようにも見えますが、本当は大変困難で前向きな取り組みなのです。

まず、「子ども」がどんな思いでいるか、何を実現したいのか、これを見極めなければいけません。そして、そのために何が足りないのか、実現させるためにどういう環境を整える必要があるのか、その環境を整えるために何を準備しなければならないのか。一人一人に対してそれを見極める膨大な労力が必要となってきます。そう考えると、教育者の都合で子どもを見て、教育するほうがよっぽど楽なわけです。

しかし、これからの教育はその「対象者」が主体的でなくてはいけません。そのためにも、星の数ほどある教育方法から、どれが適しているか探求し、そんなことを考えていくことが魅力だと感じとれるように取り組まなければならないと思っています。

「子ども」は無限の可能性を秘めた「人」です。いち教育者ごときの世界でコントロールするべきではありません