【前回の記事を読む】近代科学の手法を取り入れた「昭和大修理」の大きな成果とは!?

昭和大修理の科学的知見

年輪年代法による木材伐採年

建物

年輪年代

金堂

・上重の雲肘木が西暦六六一年

・上重の尾垂木掛が六五一年

・外陣の天井板が六六七~六六九年

・庇の西側扉口北側の辺付が六五〇年

五重塔

・心柱が五九四年(極端に古い)

・二重北西の隅行雲肘木が六七三年

・三重の垂木(南面 東から三十)が六六三年

・裳階の腰長押が六五〇年

中門

・初重の大斗二本のうち一本が六七八年、もう一本が六九九年(推定)

まず、五重塔の心柱の伐採年次が西暦五九四年と極端に古い木材であるという点について見れば、西暦五九四年という年次は三宝興隆の(みことのり)が発せられた推古天皇の時代に当たり、法隆寺(斑鳩寺)の創建の頃に相当する古さということになります。この木材は創建法隆寺の塔に用いられていた心柱で、法隆寺の再建に当たって転用された可能性が強く感じられます。

もし、本当に創建法隆寺(若草伽藍)の木材であるとすれば、天智紀が伝える「法隆寺に(ひつ)けり。一屋(ひとつのいへ)(あま)ること無し」と記述されていることと完全に矛盾し、天智紀の記述の信憑性が大きく揺らぐことになります。

また、五重塔の心柱に限らず、金堂や五重塔に用いられている木材も西暦六五〇年代から西暦六六〇年代に伐採されたものが多く、もし天智紀の記述が正しいとすれば、天智天皇九年(六七〇)四月の大火災の前から大量の木材が準備されていたことになります。

現実には、将来の大火災を予測することは不可能ですから、これも天智紀の大火災記事の信憑性を根底から揺るがす結果ということができます。

すなわち、金堂と五重塔の木材の伐採年を見たとき、天智紀が伝える西暦六七〇年より新しいものが五重塔で一本あるのみで、それも西暦六七三年と大火災からわずか三年後でしかないのです。もし、本当に西暦六七〇年に法隆寺が一屋も余すことなく燃え尽きたとすれば、金堂や五重塔に用いられる木材は西暦六七〇年を越えるものばかりという結果になるはずです。

それにもかかわらず、実際には西暦六七〇年以前のものが大部分となっています。このことは、天智紀の法隆寺大火災記事がきわめて怪しいものであることを明瞭に示しています。

また、現実にはあり得ないことですが、もし創建法隆寺である若草伽藍が存在するうちに隣接地で新しい伽藍(現法隆寺)の建立に取り掛かったとすれば、右の表のとおり金堂の上重尾垂木掛の伐採年が六五一年と推定されるため、遅くとも西暦六四〇年代には新しい伽藍の建立に着手したことになります。

一方、若草伽藍の正確な完成時期は不明ですが、仮に西暦五九四年頃から建立が開始され、西暦六二〇年代に概成したと考えれば、完成から二十~三十年で若草伽藍を放棄し、新しい伽藍(現法隆寺)の建立を決定したことになります。短期のうちに、これほど無謀な意思決定はあり得るのでしょうか。

加えて、五重塔の心柱が創建法隆寺(若草伽藍)から転用されたものであると考えた場合、完成間もない若草伽藍の五重塔から心柱を抜き取り、新しい五重塔の心柱として据え付けたことになりますが、これはあまりにも非現実的なことです。つまり、年輪年代法の結果を見る限り、天智紀の大火災記事はきわめて怪しいことは間違いありません。