【前回の記事を読む】五重塔を支えるかなめ「心柱」昭和の大修理で明らかになった大きな発見とは?

昭和大修理の科学的知見

五重塔心柱の腐朽

五重塔の心柱根元の空洞とその補修状況から考えて、五重塔の心柱は最初に礎石の上に正常な状態で建てられたものの、心柱の地中部の表面がある程度腐朽するほどの期間が経過した後、腐朽箇所の補修(腐朽した表層部を削り取り、できた隙間を切石などで埋める補修)が行われ、その後に須彌壇の改造等が行われて五重塔は完成したというのです。

つまり、当初の心柱の建て込みから五重塔の完成までの間に、心柱の根元の表層部が腐朽してしまうほどの時間経過があったということを教えているのです。

五重塔須彌壇の改変

前項で須彌壇(しゅみだん)の改造とありますが、法隆寺五重塔では初層の四周に塑像が安置されており、その安置された場所が須彌壇(または、須彌山)と呼ばれる場所になります。その須彌壇の改変について、『法隆寺国宝保存工事報告書 第十三冊』(頁一〇九)に次のように記載されています。

「須彌山を取外した後調査した結果、その骨組を形成している間渡材や木串材の中には、その表面が風化したり、或いは顔料が残っていたりして、旧化粧材の廃材を小割して用いたと認められるものが多数認められたので、現在築造されている塑形の大部分は第一次改造時の製作になることはほぼ確実と見られるに至った。(中略)

須彌山の改造が心柱柱根の腐朽に伴う空洞上部礎石の据付工作と関連して須彌壇の改造が行われたということは、須彌壇構築用の日乾土塊が心柱下部に挿入された心礎の末端に乗っており、且つ一連の工作であると見られる箇所のあることや、これと同種の日乾土塊が空洞上部の埋戻し用小詰として用いられていることなどから推察されるし、又空洞上部礎石の間から見出された忍冬唐草瓦の文様や現須彌山自の形式手法等から見て、創建後かなり早い時期の改造になることが想像される。」

つまり、五重塔の心柱が礎石の上に建てられて一定の時間(心柱根元の表層部が腐朽するほどの時間)が経過した頃、須彌壇の改造が行われることになり、その須彌壇改造の過程で須彌壇の造作を取り外したところ、心柱根元の腐朽が発見されたのです。そこで、須彌壇改造の前に心柱腐朽部を日乾土塊などで補強したうえで、須彌壇の改造に取り掛かったというのです。

そのことは須彌壇構築用と同じ日乾土塊が礎石の上に乗っていたこと、須彌壇構築と心柱補修とが一連の工作と見られることなどから推察され、さらに須彌壇改造の作業は五重塔の建設着手後かなり早い時期に行われたというのです。

なお、この須彌壇には『伽藍縁起』が和銅四年(七一一)に完成したと伝える五重塔初層四面の塑像が安置されており、須彌壇の改変は和銅四年(七一一)の塑像完成よりも前ということになります。