世情は儂に、悲嘆に暮れることを許さなかった。比叡山延暦寺が切支丹の追放を求め、結城忠正を通じて儂に訴えてきた。儂は三年前にも同様の訴状を扱っていた。

その時は、基督(きりすと)(きょう)に反感を持つ法華宗本圀寺の僧侶が竹内秀勝を通じて、宣教師の追放を儂に訴えた。本圀寺の大檀那である儂としては、宣教師を追放したかったのだが、長慶様が基督教を許可している以上、表立っては追放できなかった。

此度は比叡山延暦寺と基督教宣教師とに宗論させることを儂は思いついた。

残念ながら、基督教宣教師の親玉であるヴィレラ神父は、身の危険を感じたのか、この時には周防国山口にいたため、代わりに日本人の盲目の琵琶法師で切支丹(きりしたん)のロレンソ了斎なる者を奈良に召喚した。

宗論の審査には、将軍家奉公衆で儂の与力の結城忠正と、この頃多聞山城に身を寄せている朝廷の明経博士清原枝賢と、儂の家臣の高山飛騨守との三名に立ち会うよう儂は命じた。義興様を亡くし、とにかく気力が萎えてしまった儂は、塞ぎ込みがちであったので、立ち会う気分にはなれず、ただ報告を待つことにした。

どのような熱弁が振るわれたのか儂には知る由もないが、宗論でのロレンソ了斎の答弁に感銘を受けた審査役の三人は皆、驚いたことに基督教に改宗してしまった。結城忠正はアンリケという洗礼名を授かり、高山飛騨守は自らがダリオという洗礼名を授かるだけでは飽き足らず、妻にはマリア、子の右近にもジュストという洗礼名を授かり、そればかりか家臣の半数にのぼる百五十名までもが切支丹となってしまい、挙句の果てに領地である宇陀の沢に教会を建てる始末であった。

斯くして宗論は基督教の勝利となったのであるが、実は儂もかねがね、南蛮人の知識や技術に対して興味を持っており、結局、基督教に対する宗教弾圧は行わないことにした。

年の瀬、倅の久通が廿(にじゅう)一歳にして従五位下に叙せられ、右衛門佐に任ぜられた。

従五位下、右衛門佐となれば、足利家一門で管領家の斯波氏、畠山氏と同格となり、異例で破格の待遇を受けることになる。

それというのも、正親町天皇と将軍義輝公が、義興様を亡くして悲嘆に暮れている儂と、実の兄のように義興様を慕っていた久通の落ち込む姿を見兼ねてなされたことだと、人伝えに聞いた。

主上や公方様の御心遣いは有り難かったが、すっかり気の萎えてしまっていた儂は、松永の家督を久通に譲ることにした。