館には義仲時代の家事に携わる使用人が散らずに残っていた。義経一行が門を潜った初日、塀の外に数人が並んで迎えた。

「私は屋敷内で奥向きを任せられていた福という者です」

「私は、男衆を纏めておりました惣吉と申します。ここにいる者は皆この屋敷でこれからもお仕えしたいと望んでおります」

「おおそうか、残ってくれるか。我々はまだ都もこの館も勝手がわからぬ、義仲殿がこのようなことになったが、この屋敷にいた者が悪いということではない、そのまま仕えてくれ」

「ありがとうございます」

全員が安堵の表情で頭を下げた。

「福、惣吉。これは喜三太という者で馬の世話をすることになっているが、奥向きの頭とする。以後事あるごとに喜三太と図るようにせよ」

「さ、皆これより一つ所で暮すことになる、互いに名乗り合うがよかろう。私が源義経である。無理を頼むことがあるかもしれぬ、よしなに」

木曽兵が去った後の館内は、乱雑で足の踏み場もなかったが、協力して休める場所を作った。そしてそれぞれが名乗り合い初日が過ぎた。使用人とのつなぎ役は喜三太であったが、館全体のまとめ役は諸事に明るい弁慶とし、公務の事は有綱、武辺のことは、継信・忠信が中心となる体制を定めた。

義経と郎党たちは屋敷内を確かめ、弁慶が部屋割りを決め、手をいれる箇所を喜三太に指示したが不平をいう者はいなかった。そんなことは些事であり鎌倉時代の無聊を思うと皆大いに勇んで笑い声が絶えなかった。

「おいおい郎党も増えるであろうが、北の対屋にお迎えするお方は急がぬ方が良いな」

弁慶がため息をつくように言ったのには訳がある。義仲を都から追い出し、法皇をはじめ宮廷を安んじた義経は、公家達のみならず庶民からも好感を持って迎えられた。都の取り締まりを任務として義経が残ると聞き、広く歓声が上がった。

そんな義経に将来の出世を見込んだ公卿衆が、競って自分の娘を義経の側室にと差し出した。法皇の寵児となった義経は間違いなく出世するし、清盛のような野望も持っていなさそうで、自ら破滅することは考えられなかったのだ。義経はそんな娘たちを拒否しなかった。

側室と言っても当時は通い婚が普通だったから、男が女の所へ通う習慣になっていた。まず、鳥飼中納言の姫が親元の館で義経を待つようになった。義経には、既に奥州時代も地元の豪族の娘が伽に差し出されることが多々あった。地方豪族からすると貴種である源氏の御曹司の胤を娘が宿せば将来が明るくなると思ったのだ。都も地方も権力に(おもね)ことは同じだったのだ。