お待たせしました、とウェイトレスさんが麻婆豆腐を運んできてくれた。赤くてつややかなソースが、清らかな豆腐の白を包んでいる。レンゲで取り皿に取って、口に運んだ佑子は、絶句する。いや、視線をヒロさんの口元に向けていたから、無視された料理が怒って辛くなったワケじゃなく。

「辛っらーい!」

紹興酒じゃなくて、ビールがあったらよかったのに。でも辛いとしか言えないんだけれど、唐辛子の辛さじゃない。唇から舌から喉まで、麻痺したような感覚。しびれ感が半端じゃない。それでも、その刺激の向こう側からじんわりと生まれてくる旨みが、やっぱりさすがなんだけれど。

「それが四川料理の花椒の風味なんだって。マイルドな日本の麻婆豆腐と違うよね」

「その、日本の四川料理を作った名料理人の話にスライドすると、また脱線しちゃうからやめとくけど、どうする?」

ヒロ先生の授業は、ちゃんと進むのだろうか。

「風土が、食文化も、人の気質も、言葉も宗教も願いも喜びも作るんじゃないかな。同じ一本の樹木を見ても、その新緑の葉を美しいって思う人もいれば、こんなの邪魔だって思う人もいる。切り倒して舟作ろうって思う人もいる。海は恐ろしいって思う人もいれば、海は豊かだって思う人もいる」

「その海を真っ黒に染めて泳いでくるから、真っ黒、マグロとなったな」

「でも先生、マグロの刺身は赤いですよ」

「だからお前は愚者だってンだ。切り身で泳ぐ魚はいねぇ」

「あの、脱線はもう」

「じゃあユーコちゃん。クジラは何でクジラって言うか知ってる?」

佑子はいいかげん、この二人の脱線癖に疲れてきた。ちなみに、このネタは、おそらくヒロさんあたりから仕入れたのだろう、基も先日同じことを言っていた。まったく。

「毎朝八時五十分過ぎに潮を吹くからですよね」

「そう、それを見ていてもう九時ら、って言ってた漁師さんの日常は幸せだっただろうかな、って。クジラは捕れなくても、鯵や鯖がたっぷり獲れてたら、漁師さんたちは幸せな一日になっただろうね。ヴェルサイユに押し寄せたパリのおかみさんたちは、ダンナや子どもたちに食べさせるパンのある日常が失われたからパニックになったんだよ」

「まぁ、お蕎麦が食べられないのならおうどんを。うどんなら高松だよね。私、竹清の天ぷら好き」

「ぼく的には、香川県庁の所のさか枝が。あ、でも坂出にもおススメの一軒が」

「そういえばさ、前に由比ヶ浜にクジラが乗り上げちゃったことあったじゃない。縄文人的にはああいうのも自然の恵みだよね。縄文時代に国際捕鯨委員会、なくてよかったよね」

「あの、結論としては」

「ティース!」

そこに基が入って来た。

「わぁお、麻婆。すいません、とりあえず生ビール! 大きいのでね。何でこんなに残ってるの? いいですか? フィニッシュしまぁす!」

痺れる麻婆豆腐を一気に、取り分け用の大きなスプーンを手にしてあふれるほど口に入れ、生ビールで飲み下す。自分のパートナーが、こんなにケモノみたいなヤツでいいのか。佑子はもう何だか分からなくなって、ひたすら脱力感を覚えるのだ。