されど、この日は違っていたのだ。無意識の内に、何か不穏な空気を感じとっていたのかもしれない。その事態に危機感を覚えての備えなのか、普段はスナック菓子で済ませるはずの食事としてジャンクフードではあったが、詰め込むようにしっかりと摂ったのだった。だがこの日の番組にも大きな事件・事故のニュースはなく、そのほかの項目も特に興味がないものばかりでつまらない。

退屈しのぎに父の書斎に行き本でも読もうと、立ち上がろうとした、その時である。明日美は身体に異変を感じたのだ。いつもとは何かが違っている。得体のしれない空気に包まれて、宙に浮くようなフワフワした心地良い浮遊感を覚え、テレビの音もだんだんと遠のき、そして消えていくのだ。自分の中で起きつつあることに、底知れない恐怖を感じ、藁にも縋る思いで言う。

「どうなっちゃってんの、私? レオ君きてー!」

明日美の助けを求める声から、本能的に飼い主の危機を感じたのか、毛を逆立てたレオが走ってきて膝の上に飛び乗ってきたけれど、その重さも感じなくなっている。何を思い、考えているわけでもなしに、ぼんやりとしていることはよくありながらも、こんな不思議な感覚を体験したことはいまだかつてなかったことだ。

「何この感じ、もしかしてこれが禅でいう無念無想の境地っていう状態なの、どうして座禅をしていないこの場面でこうなるわけ、おかしいじゃないの、大体にして無じゃないし!」

この地域の学校では、遠足といえば平泉ひらいずみがお約束であり、中尊寺は度々訪れている。中尊寺は天台宗東北大本山となっていて、座禅体験ができたのだ。加えて明日美は禅宗に興味があり、少なからず知識を持っていたために、その時はそう思ったのだ。

しかし、にわかには答えが出そうにもない。自問自答の空虚な意識の奥から、突如として何かが湧き出してくるのを感じ、その何かが猛烈な勢いで明日美の心の中で増殖していく。そんな中、微かに自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。

「何かよくわかんないけど、ここにいてはダメみたい、行かなくちゃ」

自分の意識と、そこに侵入しようとする者とのせめぎ合いの中で不意にそう思い、誰に指示されたわけでもなくごく自然に防寒着をまとい、手袋をはめて玄関のドアを開くと息が白くなっているのがわかった。今の時期、まだ寒さが残りそれが身にしみる。家の陰にある欅に隠れるように裏山へと登る道があり、どうもそこへと誘導されていくようなのだ。その道は獣道程度の細い山道で、登り口もまた、それを隠すように濃い竹藪に覆われていて、おそらく天見家以外に知る者はいないであろう。

※本記事は、2021年8月刊行の書籍『魏志倭人外伝』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。