「池田に続いて三宅もかよ。摂津衆は木偶の坊ではあるまいのぅ」

一存はまたも呆れ顔で愚痴た。一存は晴元の拠る三宅城への攻撃を必要に進言したが、長慶様は頑として許さなかった。『おそらく元主家と直接対することを躊躇(ためら)われておられるのだな……』と儂は思った。

少々線が細く、元来お優しい質(たち)の長慶様であったが、たとえ元主家であろうとも、この機に討ってしまうくらいの気構えなくして、どうして〈民草が安寧に暮らせる世〉など実現できようか。そう思い、いささか棟梁としての物足りなさを儂は長慶様に感じた。が、今の儂の立場では、それを諫言することは憚(はばか)られた。

細川晴元勢の進軍の報に勢いづいた宗三勢と伊丹勢は伊丹城を発し、宗三は東に兵を進め芥川山城を、伊丹親興は南に兵を進め、甚介の籠る尼崎の富松城をそれぞれ攻めた。その知らせがもたらされた中嶋城内は少々ザワついたが、長慶様は至って冷静でいらした。

「孫四郎(三好長逸の通称)、これより芥川山城の援軍に向かえ」とお命じになり、長逸は芥川山城に向け出撃していった。芥川山城の芥川孫十郎も奮戦し、長逸が到着するまでは……と必死に城を守り、宗三勢の猛攻を凌いでいた。甚介も富松城を良く守り、伊丹勢の攻撃を退けた。

「三好長逸様より伝令。三好宗三勢が兵を退いたとのこと」

「松永長頼様より伝令。伊丹勢を退けたとのこと」

相次いでもたらせる朗報に中嶋城内は湧き立った。

「甚介め、なかなかやりおるわい」

弟の大手柄に接し、我がことのように嬉しくなり、独りで儂はニヤけていた。結局、三好宗三は細川晴元の拠る三宅城へ、伊丹親興は伊丹城へそれぞれ兵を退いた。晴元・宗三派としては、山城国と摂津国を結ぶ幹道を抑える芥川山城を奪うことで兵站の確保を目論んだのであろうが、失敗に終わった。

榎並城の包囲は八ヶ月に及び、城内の兵糧もそろそろ尽きたのかと思われるほど、城方からの反撃は影を潜めていた。

六月になっても六角勢は姿を見せず、宗三は痺れを切らしたのか、十一日、晴元が止めるのも聞かずに三宅城を発し、江口に陣を敷いた。江口は息子三好政勝の籠る榎並城と長慶勢の拠る中嶋城の両方に睨みを効かせる位置にあり、神崎川と淀川により三方を河水に守られた天然の要害の地である。まさに榎並城を囲む長慶勢の側面を窺う位置にあった。