天文十八年(西暦一五四九年)

小規模ながらも要害の榎並城は年が明けてもなお、籠城を続けていた。長慶勢は、儂ら長慶様の本隊、摂津衆、安宅冬康の率いる淡路衆、十河一存の率いる阿波衆と讃岐衆、これに遊佐長教の率いる河内衆が加わり、大軍で榎並城を包囲していた。

冬の野営は厳しく身体に堪(こた)えるので、淀川を隔てた対岸にある中嶋城をとりあえず落とし、敵方の城主細川晴賢を追い出し、そこに本陣を据えていた。

正月下旬になってようやく京を発した宗三勢は、山城国から直接摂津国に入ることはせず、氏綱派が抑えている芥川山城を避けるように、丹波国へ迂回して摂津国に進軍していた。城主になって間がない池田長正の拠る池田城は呆気なく宗三勢に落とされ、数少ない晴元・宗三派である伊丹親興の拠る伊丹城に宗三が入ったという。

「池田の若殿は何をしておったのか。池田衆も口ほどにもないわっ」

中嶋城で知らせを受けた十河一存が呆れた顔で愚痴た。

「一昨年の戦いでは戦わずして降伏したかと思えば、此度も役立たずじゃ」

一昨年の戦いの折、池田勢に裏切られた遊佐長教は皮肉を込めた。宗三の動きに対応して儂ら長慶勢本隊は、榎並城の包囲を遊佐長教と長慶様の弟たちに任せ、伊丹城を牽制すべく尼崎の富松城に移動した。ところが、そうした儂らの動きは敵方に筒抜けとなっており、宗三勢はすかさず、榎並城にも中嶋城にも睨みの効く位置にある柴島城に入城し、儂らは出し抜かれた形となった。

「殿、宗三めにしてやられましたなぁ」

長慶勢本隊で小隊を率いる甚介が顔を顰めた。

「甚介、富松城はそなたに任せる。できるか」と、長慶様が仰せられたのに対して、「万事お任せあれ」と、甚介は胸を張って応えた。『あとは頼んだぞ』と、儂も甚介に目で合図し、甚介も右の拳を前に突き出して応えた。

長慶勢本隊の大方の兵を甚介に預け、長慶様ご自身は儂を含めた馬廻衆のみを率いて中嶋城に取って返した。長慶様の動きの速さが功を奏し、柴島城を数日のうちに陥落させ、宗三は這々(ほうほう)の体(てい)で城を抜け出し伊丹城に退いた。

一方、細川晴元は京にて榎並城への援軍の編成を急いでいたが、頼みとしていた六角定頼がなかなか腰を上げずにいた。だが、ようやく兵が集まると、晴元は六角勢の来援を待たずに丹波へ迂回して北摂津に入り、三宅城を攻めた。そして打倒宗三の急先鋒だったはずの三宅国村の守る三宅城は呆気なく陥落してしまった。