当たり前の気付き 学びではなく、気付かせてくれるかが読書

本を読むということが私にとってどんな体験になるのか。

そして、この行為を人生に活かすにはどうすればいいのかといったことをもっと指摘できれば、この本の価値がもう少し高まるのですが、結局、私の言っていることは、"幸福感"だとか、"自身に合ったやり方"だとか、"捉え方"だとか、"意味付け"だとか言っているだけのような気がしてきました。

それでも、そうした自分なりの心の整理というべきことが前よりもしやすくなったのは、本を読むことによって物事と自分との関係を理解し、その軽重、有用無用、意識無意識を判断するという訓練が、少しずつできるようになったからだと思います。

それこそが、読書によって得られる最初の気付きだったのです。

ただ、本が私に教えてくれたもうひとつの素朴な現実は、「必要なものはすでに自分のなかにあって、私はそれに気付いていなかっただけ」ということでした。

新しい情報、知らない知識を宿してくれると思って読みはじめた本であったとしても、最終的に私の得る解釈の範囲は、実に当たり前のことですが、「実に当たり前のことが多い」という当たり前でした。

カーネギーの名言であるところの「毎日、誰かの顔に喜びの微笑みが浮かぶような善行を心がけよう」とか、「感謝の言葉をふりまきながら日々を過ごす。これが友を作り、人を動かす妙諦みょうていである」とか、「私たちの疲労は仕事によって生じたのではなく、悩み、挫折、後悔が原因となっていることが多い」なんていうのは、ちょっと考えれば学生でも思い付くような標語です。

ヘミングウェイの『老人と海』は、「老人が苦労の末に巨大カジキを釣り上げる。格闘の末に大きな偉業を成し遂げるも、あらがえない力によって身を削られていく。長い人生の旅路の末には何も残らない」という、実に当たり前の内容でした。

百田尚樹の『永遠の0ゼロ』は、確かにとても感動的でした。誰よりも生きたかった人が、他人のために命を捨てる。自己犠牲への精神の矛盾についての当たり前を、改めて世に説いたのでした。

単純な理論にしてしまって申し訳ないですが、自分にとってやりたいことをやるのと、他人のためにやりたくないことをやるのとでは、どちらが正義なのかを気付かせてくれました。