1830年代に入りいよいよインド産紅茶の誕生の機が熟す条件は、弥が上にも揃って来た。1833年中国政府は、この年に期限が来た貿易条約の更新を拒否して来たのだ。即ち東インド会社による中国からの茶の輸出独占に終止符が打たれるとともに、インドでの茶栽培を阻止しようとする同社による圧力は自然に消滅した。

茶の供給の道が途絶えるという深刻な事態に直面し、インド総督W・C・キャベンディッシュ・ベントリック卿は、中国茶樹のインドへの導入可能性とその最適栽培地につき委員会(ティーコミッティー)に諮問した。

一方、C・A・ブルースは、政府が中国産茶樹を導入しての植栽を強引に進めてゆこうとする中で、その間もあくまでアッサム産茶樹にこだわっていた。その後の結果はご推察のとおり、「インド国内では、アッサムが紅茶栽培の最適条件候補地であること」「この地では、中国産茶樹よりも自生のアッサム種の方が、はるかに優勢に生育し品質良好な紅茶向けの木となったこと」である。

1837年いよいよ、ブルースによる最初の生産品46箱がカルカッタのティーコミッティーに出荷された。このうち選別を経た350ポンド(約158kg)8箱が翌38年5月8日ロンドンに向けて出港。さらに翌39年1月10日のロンドンオークションで熱狂的歓迎に包まれ、史上初のインド紅茶は全て高値で競り落とされた。

アッサム奥地で原生の茶樹を目の当たりにし熱い夢を見つつ若くして病に倒れた兄のロバートであったが、弟チャールズはその遺志を大切に引き継ぎ、見事に夢の実現を果たした。そしてインド紅茶の発展の揺籃期を、妻エリザベスと終生アッサムで暮らすことになった。

C・A・ブルース夫妻とその家族の墓。夫妻の墓碑

1871年78歳でブラマプトラ北岸テツプルの地で亡くなった。今も妻と共に同地にあるマクロードラッセルインディア社が所有するパタグア茶園内の教会墓地に安らかに眠っている。これがアッサム種の発見者であり、インド茶産業の父といわれるブルース兄弟のご紹介。今宵のディナーの仕上げには、セカンドフラッシュ・ゴールデンチップアッサムをミルクインファーストで淹れるとしよう。

これぞ大英帝国紅茶といわれりゃ癪なことだが、ほろ酔い気分のリキュール後には、最高のチェイサー。アッサム紅茶で、気分は茶人パラダイス。