「どうしたんだ」

「し、篠原先生。大変です。すぐに救急救命室に」

「どうしたんだ。顔から血の気が引いているぞ」

「陽菜さんが。先生の娘さんが、事故に」

「はぁ。なにを言っているんだ。頼むから落ちついてくれ」

こいつは、いったいなにを言っているんだ。わたしはひとまず深呼吸を指示して、なにが起こったか順を追って説明してもらうことにした。

「篠原先生が医局を出ていった直後、救急部から連絡があったんです。陽菜ちゃんが交通事故に遭って救急搬送されたと。奥様も駆けつけたとのことですが、衝撃のあまり、待合室で倒れてしまったと」

な、なにを言っているんだ。そんなわけ、ないじゃないか。わたしは笑い飛ばそうとしたが、口が乾いて上手くいかない。そこでさっきの記憶が蘇る。さっき病院を出たとき、救急車のサイレンの音が聞こえてこなかったか。

「陽菜ちゃんは、友達の家からの帰り道、歩道で飲酒運転の車に跳ねられたらしいんです。あ、頭を強く打ったみたいで、意識がないと」

わたしは気がつけば走り出していた。院内履きのスリッパが脱げても立ち止まらず、談笑していた看護婦たちを跳ね退けながら階段を下っていく。暴れるような鼓動に眩暈がしたが、気にしてなどいられなかった。なにかに、なにかにすがらずにはいられない。頼む、神様。なんでもする。わたしの命だってくれてやる。だからお願いだ、娘を助けてくれ。陽菜、陽菜、陽菜。

集中治療室の扉をあらんかぎりの力で開け放った。中央の詰所に人影はない。二番処置室から、切迫した声とアラーム音が響いている。処置室に駆け込むと、救急部の医師や看護師が水色のワンピースを着た血塗れの女の子を取り囲んで心臓マッサージを行っていた。口には挿管チューブが挿入され、懸命な蘇生処置が続いていた。だが心電図モニターのアラームはほとんど横凪で、微弱な電波しか拾っていない。わたしの素性を知る救急部看護師がこちらに気づき、額の汗を拭いながらわたしに告げた。

「篠原先生、蘇生中です。今は外でお待ちください。奥様も気を失って待合室で横になっています」

どんなことをしてでも愛娘を救って欲しい渇望と、救命処置で愛娘を傷つけて欲しくない衝動がぶつかりあい、自我を保つのすら危うかった。いずれにせよ、分かっていることがある。わたしはこの光景を、生涯忘れることはできない。

「神様、頼む。どうか」

わたしは息も絶え絶えそう願うと、多恵が待っている待合室へと重い足を進めた。