事故に遭った妻は…

達郎は、富山方面へ行くことにした。

これで落ち度はないだろか……もう一度検討してみた。どうやら、なさそうだ、と思った直後、肝心なことを忘れていた、と思った。今晩泊る予定になっていたホテルの支払いを済ませていなかった。

これは大変だ。宿泊料を支払わずに、このまま消え去ってしまったら、わざわざ自分が犯人であることを告知しているようなものだ。それに、殺人犯として逮捕されなくても、宿泊料の踏み倒し犯として、刑事事件の対象となってしまう。

それがきっかけとなって、十分に足がつく。いずれにしても一度、ホテルには戻らなければならない。絶対に宿泊料金を払ってからでないと、この町を去ることはできない。

うーん、色々と問題点は出てくるなあ……達郎は、この後の自分の行動に関して、さらに熟考した。このまま、宿泊する予定のホテルをキャンセルして、慌ただしく帰るのは、不自然ではないだろうか。どうみてもおかしい。

普通、一度チェックインしたホテルをキャンセルすることは余程のことがない限りしないはずだ。それだけで、ホテルの従業員の脳の海馬に大きなインパクトを与え、忘れられない記憶として残してしまう。

後は、顔を見られないようにして、明日の午前中なるべくチェックアウト客の多い時間帯を見計らって会計を済ませるのがベストだ。

結局、その日は当初の予定通り、金沢東都ホテルに宿泊することにした。途中細い路地を抜けて道に迷った関係で、ホテルに到着するまでに四十分かかった。その四十分の徒歩が、達郎には一時間にも二時間にも感じられた。

フロントでは、従業員に視線を向けないようにして、ルームナンバーを言い、キーを受け取った。部屋に戻るやいなや、達郎はさっそくテレビをつけた。

土曜日の十時半という半端な時間だったので、NHKを初め、どのチャンネルもニュースを放映していなかった。

そのまま、NHKをつけっぱなしにした。ベッドに座ると缶ビールを開けて、思いっ切り流し込んだ。とにかく、喉がからからだった。二つ目の缶ビールを開けて、半分ほど飲んで、ようやく渇きがおさまった。

あの男は、間違いなく死んでいる。俺があいつを殺したことが警察にわかるだろうか……少なくとも、あのマンションに入る時の玄関でも、廊下でも、五階に上がるエレベータの中でも、井上を殴り、一階まで階段を一目散に降りる時も、そして、管理人室の脇を通って、玄関から外に出る時も、誰一人として出逢った者はいなかった。

ただ、こちらが気が付かなくても、脇から、あるいは遠目に目撃されているかもしれない。この場合、横顔や後ろ姿を見られていても、正面の顔は見られていないはずだった。これだけでも多少安心はできる。

ただ、監視カメラがあれば、それに写っているかもしれない。顔は良く見えなくても、着ている服の種類や色を認識されていることが考えられる。

今日、着ているのは紺のスーツにブルーのネクタイで、どこにでもある服装だ。が、念のため明日はチェックアウトが十一時だから、十時に近くの洋品店で上着を買って着替えようか。

いや、そんなことをしている暇があったら、一刻も早くこの金沢の町から、消え失せた方が良さそうだ。

とりあえず、ネクタイのみを外すことにしよう、これだけでも少しは雰囲気が変わるだろう……いけねえ、指紋、指紋が残っている。指紋がべたべただ。

玄関脇のインターフォン、これは色々な住人が暗証番号として、数字のボタンを押すからわかりにくいとしても、503号室のチャイムには残っている。

ああ、それに非常口のドアにもある。ちきしょう、あわてていたから指紋を消してくるのを忘れてしまった。

しかし、今更どうしようもない。これから戻って消し去って来るわけにもいかない……あ、それに、サングラスも階段に落としたままで来てしまった。あれにも指紋は付いている。

けれども、どうせ指紋があったって、前科者でない以上、俺の指紋だということはわからないだろう。

要するに、井上に殺意を抱く容疑者の中に俺の名前が挙がらなければ良いのだ。井上と俺を結ぶ糸は、幸いにも智子と井上が関係を極秘にしていた以上、俺の所には到達しない。