ドドドドドと怒濤の勢いで、人間に苦しみが襲って来た。人間の繊細な神経が、まるでハープのように浮き出た。

心臓がどよめいた。身体の細胞が何かを待ち構えて呻き出した。

何者かに打ちのめされた心が鮮やかに晴れる日を待っていた。ピアノ線が鍵盤を叩くのに共鳴してピーンと音を鳴らした。希望の日がやって来る気配がピアノの張り詰めた空気を震わせるような凛とした音色から感じられた。救うはピアノの演奏、蹴落とすのは何者だっただろう。

何者かの抑圧から逃れる人間が映った鏡には、自由の羽を付けた天使がいた。

愛に溢れた天使は微笑んでいた。天使は、社会に縛られた人間に自由を与えた。そこには、音楽が鳴り響いていた。ピアノを奏でる天使は、苦しみも楽しみも知っていた。

天使は、人間になって降りて来た。人間は、葛藤し、苦悶し、楽しみ、喜び、挫折し、復活する。音楽は人生そのものだった。

天使は、人間になって言った。

「私の使命を果たすべきときが来た。いざ、立ち上がれ。自ら指揮を取れ」

ピアノを奏でる人間は、愛を持っていた。天使がエールを贈った。

「あなたの希望は叶うわ。さぁ、出番だ。自分自身の構築した思想や哲学をピアノを奏でることで表現しなさい」

人間は主張した。

「私は、目的とすることをやり抜くわ」

「終わった」

音の結晶が一瞬の内に光を放ちはじけ飛ぶと、田中亜紀の『発表会』でのピアノの演奏が終了し、拍手喝采に包まれた。

朝午前四時に起きて、かなりの神経と体力を消耗した。これまで、何回も、『発表会』を辞退しようかどうか葛藤し喘いで練習を続けてきた成果を、十月二十日に出し切った。

『発表会』のプログラムの順番は四番目であり、亜紀には気に入らなかったが、インパクトのある演奏をして会場を盛り上げるのには最適の役を果たした。

初級者の後に、シューベルト作曲の『ピアノソナタ第十六番イ短調,D845,Op.42. 第一楽章』という大曲を弾く亜紀が回されたのだった。勿論、ミュージックスクール側も意図して亜紀をプログラムの四番目に抜擢した。譜めくりの先生は、最も生徒を多く持つ大御所のような存在だった。

この先生と亜紀がコラボレーションすると、最強のペアになるのだった。

弾き終わって舞台から楽屋へ戻って来る亜紀を、先生方は大きな拍手をして出迎えた。

先生方の目は、光っていた。亜紀は、自分の演奏が思った以上に成功したことを自覚した。

ここに至るまで、音大に教わりに行って先生にひどいことを言われて、自信喪失したこともあった。しかし、ミュージックスクールで担当する佐藤絵美先生は、絶対に諦めないで粘り強く教えてくれた。

絵美先生は年下だけれども、年上の先生以上に温かく優しく、それでいて、厳しいレッスンを遂行した。十ページもあるシューベルトの難曲を半年間で亜紀に教え込んだ。五月の下旬から八月の中旬まで最初の三ページしか進まなかった。