“赤ひげ先生”

戦争が終わって五年目の昭和二十五年、我が家は那覇市二中前の茅葺き屋根の下で電気も水道もない中、五人家族で暮らしていた。父は戦死、母は夜遅くまで休日なしの仕事についていた。

買い物には六歳の次女が母の手書きのメモを頼りに買い物かごを引きずりながら出かけ、小学三年の長女が夕飯を作っていた。小学五年の長男の私は、水くみ当番の役目を負いつつ、兄貴風を吹かしていた。そんな中、ランプの(すす)取り当番だった小学二年の弟が急に高熱を出し「頭が痛い、頭が痛い」と大泣きしたため狼狽した。

母へ連絡する手立てもなく、日頃頼りになる近所のおばちゃんたちも留守だった。大泣きする弟を前に途方に暮れた私は、病院に連れて行くしかないと思い、泣きわめく弟を背負い病院に向かった。知っている近くの病院といえば樋川通りにある産婦人科医院だった。

当時は産婦人科だとは知るはずもなく、うめき声をあげる弟を背負い、病院に向かった。おそるおそる玄関を開け、受付のおねぇさんに「弟が頭痛いと言って泣いている……」とだけ伝えた。

「お母さんは?」

「母さんは仕事に出ていない」

「二人で来たの?」

「ハイ……」

受付のおねぇさん二人は何やら話しあった後、一人が診察室の奥へ消えた。まもなくして診察室から戻ったおねぇさんから「ついておいで」と言われ、診察室に通された。

先生は手慣れた様子で診察を済まし、注射を一本打ち、「薬出すから」と言った。診察を終え待合室に戻ると、私は、おそるおそる受付のおねぇさんに「お金持ってない……」と小声で告げた。おねぇさんはそれには答えず、「お薬出すね」と言ってニコッとした。

帰宅後、弟はすやすや寝入りようやく落ち着いた。言ってみれば、貧者を救済した江戸時代の「赤ひげ先生」のようなお医者だった。それから二十年、弟は群馬大学医学部に進み、整形外科医になった。その弟が結婚の相手に選んだのが、なんと、七歳の時お世話になった赤ひげ先生の娘であった。

五十数年ぶりにふるさと沖縄に転居した弟との再会を機に、このエピソードが話題になった。改めて、妻の父君になぜ、そのことを告げなかったかと問うと、病院で診てもらった記憶はあるが、そこが妻の実家の病院だとは知らなかったという。兄弟共に県外生活が長く、過去を振りかえるコミュニケーションがなかったことから、弟がその事実を知ったのはずっと後になってからであった。

五十年前のウソのような本当の話である。