隅田川の首飾り 橋の色々

隅田川は僅か二十三キロメートルの短い川ですが、十六本もの多くの橋が架けられています。橋の名前を挙げますと、上流から、千住大橋、水神大橋、白鬚橋、桜橋(歩道橋)、言問橋、吾妻橋、駒形橋、厩橋、蔵前橋、両国橋、新大橋、清洲橋、永代橋、中央大橋、佃大橋、勝鬨橋です。

江戸時代には江戸城の守りを固めるため徳川幕府は原則として橋は架けさせませんでした。唯一の例外は最上流の千住の橋でしたが、明暦の大火で多くの死人を出したので、防災のために武蔵国と下総国を結ぶ両国橋の架橋を許しました。

江戸時代、橋の代わりをしたのは両岸を往来する舟であり、両岸の舟着場を含めて「墨田の渡し」と言い、最盛期には「墨田の渡し」は二十箇所もあったそうです。

明治以降、隅田川に次々と近代的な鉄橋が架けられると「墨田の渡し」は消えていき、最後に残った佃の渡しも昭和四十一(1966)年佃大橋が架けられると廃止になりました。「墨田の渡し」の代わりを果たしたのが前掲の十六本の鉄橋です。

全て明治時代以降に架けられた文明の利器、西欧式の鉄橋です。小舟から鉄橋への転換は隅田川両岸の地域経済の発展に大いに貢献しました。明暦の大火の後、江戸の町は川向こうの本所、深川に押し出しましたが、鉄橋の架橋は隅田川の此岸と彼岸を結びつけ、東京圈の拡大に大いに貢献しました。

隅田川には何本ものアーチ式と吊り橋式の橋が架かっていますが、ひとつひとつの橋はその形態がそれぞれ異なっていて、隅田川の眺めに変化を与えています。特に大正から昭和初期に架けられた橋は装飾的に優れています。国の経済力が未だ発達していないこの時期に、美的に優れた橋を架けるのに、よくぞ多額の投資をしたものかと感心します。

中でも、女性的美しさを誇るのは清洲橋です。ドイツのケルン市にある大吊り橋をモデルにしたもので、隅田川の貴婦人といわれています。遠くからみる清洲橋は、ブルーのスカートの裾を長く引きずるように伸ばしています。吊り橋特有の流麗な曲線美は貴婦人の名にふさわしく優美です。

他方、男性的力強さを示すのは下路アーチ式の永代橋です。永代橋は明治三十年に最初の鉄橋として架設されましたが、関東大震災の後に架け替えられたとき、「帝都東京の門」に相応しい重厚なタイドアーチ式の橋にしました。永代橋のアーチは一連ですが、その一つ下流の勝鬨橋は二連のアーチを持つ橋です。橋の中央が左右に開閉する構造の大きな橋です。

隅田川の下流域は地盤が低いため橋桁が低くなります。そこで隅田川を遡上する船が通行出来るよう橋の中央を開閉して大きな船でも橋下を通れるようにしました。船が通るとき橋の中央部分が万歳をする形で開きますので勝鬨橋と名付けられました。しかし水路より陸路の交通が盛んになってからは勝鬨橋の開閉は停止しています。

更に、珍しい三連の下路アーチを持つ厩橋が、やや上流の浅草に近いところにあります。江戸時代、この近くに蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩があり、その岸辺に厩の渡しがあったので、その名が付いていますが、三連アーチの橋からは三頭立ての馬車を連想してしまいます。

隅田川に架かる橋は色彩も豊かです。浅草寺へ参拝するときに渡る吾妻橋は上路アーチ式橋ですが、橋上の欄干も橋下のアーチも朱色に染められて寺社に縁のある橋との印象を与えます。

又、蔵前橋は同じく上路アーチ式橋ですが、橋下のアーチは黄色に染められています。蔵前には幕府の米蔵があったので稲穂の黄金色にあやかって黄色に塗られています。その他の橋も水色の清洲橋、駒形橋、灰色の永代橋、勝鬨橋など多様です。

形も色も様々な橋を見るには、橋を歩いて渡るよりも、遊覧船に乗って見るのが良いでしょう。橋は横顔に特徴が表れるからです。吾妻橋の袂に乗船場があり、下流の浜離宮で下船すれば、隅田川の殆どの橋を観察出来ます。隅田川に架かる橋の多くは、江戸と東京を育てた川に相応しい立派な橋で、明治時代の文明開化の息吹を感じさせる、隅田川の首飾りとでも言えるものです。