自分の育てた「子どもの姿」は「きれい」か?

私は、自分の責任で育てる対象の「子ども」をみるとき、中学教師ということもありますが、まずは自分なりにその「子ども」の3年後あたりの「理想像」を描きます。

つまり、「この生徒がこういう姿で卒業できたらいいなぁ」とか、「次の目標までにこうなればいいなぁ」などです。そして、何年か後にその姿に近づいたとき、その姿を「きれい」だなぁと感じます。

教育していくなかで、当然最初に描いた「像」とはまったく異なることもありますが、それはそれで、その都度新たな「像」を描くのです。最初にその「像」を描くことはおそらく、教育者としての支援の拠り所として、「子ども」の主体性を生かそうとして迷ったときや上手くアドバイスできなかったときに次の支援の柱になるはずです。

したがって、自分の考えるその子に対する「きれいな姿」は本当にきれいなのだろうか、その子どもにとって「本当にきれいな姿とはどういう姿なのか」日々変化していく子どもの姿を見ながら毎日が自問自答の世界です。

卒業して十年後、二十年後、あるいはもっとその先で、一人の社会人として、「人」として何らかの話題で思い出話ができる日が来れば、あのとき「きれい」だった姿にさらに磨きがかかって「神々しく」見えるかもしれません。

そうなれば、教育者としては最高の瞬間ではないでしょうか。そんな日が来ることを楽しみにしながら日々支援しています。

「きれいに輝く人の姿」は見ていて幸せな気持ちになります

教育的な関わりとは?

私は、教育者として子どもと関わる以上、その教育現場の生活上のあらゆることに教育的意義を持って関わるべきだと思っています。

教育者のなかには教育的意義よりも自分の思うようにやったほうが意義あることだと考えている人もいるかもしれませんが、それが子どもにどう教育的に反映されているかは必ず確認すべきことです。そして、そこに教育的意義がないとすれば、それは継続する意味がないと考えるべきなのです。

何を教育的と考えるかはそれぞれの教育者の判断となりますが、その判断の良し悪しは、その教育者の関わりによって「子ども自身」が自ら成長しようとする力が生まれているかどうかにあると思います。

あくまでも「子ども自身」がです。そこに教育者が前面に立って指図したり、「子ども」に教育者の存在を意識させてしまった段階でそれは「子ども自身」が、とはなりません。

ここは肝心なところですが、よくある勘違いは、その教育者がさんざん「子ども」に過干渉になっているにもかかわらず、それを「これは関わっていることにはならない」とか、それでいて「私がちょっとだけヒントを与えたおかげで成長した」などとプチ自慢話になります。

長年自分の勘違いで関わってきた人にはなかなかここが理解されません。

私は、それぞれの教育者がここをしっかり押さえられないと「教育的な関わり」の話をしてもあまり深まらないように感じます。

教育者は常に自信を持って教育するべきだと思いますが、自らが勘違いだけはしないように、常に自らを反省して振り返ることが大切です。

自分が教育したことによって「子ども」が自ら成長していく力を身につけられているか、冷静に判断しなければいけません。

教育のプロは「子ども」の自ら成長しようとする姿にどう関わるかで勝負すべき