甲斐武田家訪問

光秀は次に北国街道を南下し甲斐に向かった。

その頃の甲斐の領主は武田晴信(後の信玄)だったが、晴信は父親である信虎を駿河に追放し、高遠頼継と結んで諏訪頼重を討ち滅ぼし、諏訪を自領とし、後に高遠頼継をも討ち滅ぼして伊那を奪い取った。

そして、この頃は信濃全土の領有を目指して、北信濃にて信濃守護村上義清と戦っていたが、敵わぬと見た義清は上杉政虎に援助を乞い、政虎は越後春日山から幾度も出陣し、北信濃川中島にて、武田方と対陣を繰り返していた。

晴信は、政虎との戦いに全力を傾けるために、それまでに紛争を繰り返していた駿河今川家、相模北条家と婚姻を結び、甲、相、駿の三国同盟を結んだ。背後の憂いを無くした晴信は、信濃統一に邁進しようとしていた。

甲斐武田氏の本拠躑躅(つつじ)が崎館は、甲斐府中の城下町の北端に位置し、そこから南に向かって碁盤の目のように区画され、なだらかな傾斜と共に、城下全体を見通せることが出来た。

館の周辺は武田二十四将の邸で固められ、背後の山肌には要害の城が築かれ、いざという時には何時でも籠城できるように成ってはいたが、いまだかって武田家は、他国に侵略することはあっても、他国から侵略されることはなかったので、籠城(ろうじょう)の城はほとんど不要だった。

光秀が訪ねた時、晴信はたまたま館に居た。何事につけても勉強熱心な晴信は、光秀の訪問を喜んで受け入れた。

光秀は、鉄砲を取り出し説明した。