仕官

その頃京では、第十三代将軍足利義輝が室町幕府を統治していたが、将軍とは名ばかりで、三好長慶(ながよし)や家老の松永久秀の傀儡(かいらい)で、三好一族が思いのままに政を牛耳っていた。

将軍側近の細川藤孝は、実は、第十二代将軍足利義晴の落し胤(だね)だったが、母親の出自が良くなかったために、家臣の三淵晴員(はるかず)の猶子(ゆうし)とされその後、三淵家の姻戚で和泉半国の守護細川元常の養子となった、そんな訳で、藤孝は、将軍義輝の実の兄だった。

藤孝は、将軍の権威を取り戻そうと孤軍奮闘していたが、専横を奮(ふる)う三好一族との力の差は歴然だった。藤孝は、土岐源氏明智家の嫡流である光秀を歓迎し、自分の片腕にと大いに期待した。

光秀が細川家に奉公するようになって一年も経過した、永禄二年(一五五九年)、織田信長が突然郎党八十人ばかりを率いて上洛してきた。

信長一行はほとんどが若侍で、派手な衣装を纏(まと)い、大挙して将軍御所を訪れ、尾張統一の報告をし、疾風のごとく去っていった。尾張織田家は、美濃の斎藤義龍との紛争を控えており、長く尾張を留守にすることが出来なかったのだ。

また、美濃から信長たちを狙った暗殺隊が京に派遣されているという情報が入っていた。その時、光秀は将軍足利義輝と細川藤孝の後ろから信長を垣間見た。

光秀は信長一行の派手な出立(いでた)ちにも驚いたが、それにもまして信長の、細いが眼光の鋭い切れ長の目が印象に残った。細川藤孝の家臣となった光秀だったが、光秀にとっては退屈な毎日だった。

義輝は将軍と言っても政の実権は摂津守護の三好一族や、家老の松永久秀に握られており、なすすべもなかった。

光秀は、修行と学問のために機を見つけては叡山を訪問した。叡山では、天台座主自ら喜んで光秀を迎えてくれた。もちろん斉藤義龍に滅ぼされた明智家の悲運に同情したせいもあっただろうが、光秀は逗留を許され、東塔の南光院をあてがってくれた。

気が向けば一月余りも滞在して、唐学や仏典を学び読経に明け暮れた、天台座主はそんな光秀に得度を勧め、いっそこの叡山で僧になってはいかがかと誘ったが、光秀はまだ土岐源氏の復興の夢を、捨て切れなかった。

そして、天下の安寧はやはり武門でなければ治まらぬという思いがあった。また、時々石山本願寺にも出かけ、時の門跡、顕如光佐(けんにょこうさ)と法論を戦わせたり、囲碁を打ったりした。

顕如は、光秀を一度も宗派に勧誘しなかった、不思議に思って一度光秀が尋ねると顕如は、

「そなたは、出家して治まるような人間とは思われぬ、まだまだ修羅の世界で生きて天下を狙うような相がある」

と言って笑った。 

再び旅へ

光秀は、細川藤孝に再び諸国見聞の旅に出たいと申し込んだ。藤孝は快く許し、一年間の約束で暇をくれた。

今度は西国から四国、九州までも行脚(あんぎゃ)しようと思った、妻子は妻木(つまき)の実家に預け、中間の茂作と二人で出かける事とした。

淀川を舟で下り、夕刻には淀川河口の十三に着いた、十三宿にて一泊した光秀は山陽道を西に播磨に向かった、光秀が最初に目指したのは、東播磨三木城だった。

その頃播磨は諸大名が拮抗(きっこう)し紛争が絶えなかった。もともと播磨の守護大名は赤松氏だったが、赤松氏の勢力が弱まるにつけ、赤松氏の分家や庶流が独立し、領地争いを繰り返していた。

東の三木城には別所氏が牙城(がじょう)を張り、その西姫路の御着(ごちゃく)城には、小寺(こでら)氏がいた。

小寺氏は元々赤松氏の分家だったが、赤松氏から独立し、本家との紛争を繰り返していた。そして、もう一人姫路には流れ者で居付いた黒田氏がいた。