このように武臣が反乱を起こした理由が、『韓国の歴史教科書』では、「支配体制の矛盾」と記していますが、これは体制の欠陥だと思います。

「絶対的な権力は絶対的に腐敗する」と言われていますが、中国の王朝の興亡の歴史がこれを示しています。

朝鮮の王朝も無意識のうちに、中国の絶対的王権の思想を移入しており、王権は絶対的であり、不可侵であると誰が決めたわけでもなく決まっているようです。

この体制は宿命として腐敗して衰亡する運命を持っていることを、歴史が示しています。

したがって、この体制は欠陥体制だと思います。

しかし、この欠陥は矯正されることなく、李氏朝鮮末期まで引き継がれ、朝鮮に悲劇をもたらした基本的な原因だと思われます。

さらに、武臣政権初期の凄まじい殺戮の連続の経緯を、『韓国の歴史教科書』は「権力争奪戦を繰り広げた」と単純に述べ、「崔忠献が執権する」とこともなげに記されていますので、より詳細にこの間の実情が記された『朝鮮の歴史・新版』の「第四章 高麗の国家と社会」の「第二節 支配体制の動揺」の124ページの「崔氏政権」より引用します。

[一一九六年、崔忠献チェチュンホンは、李義旼を暗殺すると直ちにその一族を皆殺しにし、続いて李義旼に近い多くの高官を殺害することによって政権を掌握した。

政権を握った崔忠献は、翌九七年に明宗を廃して弟の神宗を擁立し、その際に明宗の側近である多くの官僚を朝廷から追放した。

(中略)

崔忠献は、いうことを聞かない者に対しては、肉親や親族でさえも容赦なく殺害し、あるいは流刑に処したが、単に独裁者であることに満足したわけではなかった。(後略)]

崔忠献が権力を掌握する過程で、彼の地位を脅かす危険性のある人物を全て殺害するか流刑に処しています。崔忠献はこのようにして60年間も続く崔氏政権の基礎を作りました。しかし、見方を変えると、罪の無い人々を皆殺しにした崔忠献は、恐ろしい殺人鬼でした。

武臣政権の誕生は高麗の身分制度を揺るがしました。これに関して、『朝鮮史1』は「崔氏政権の誕生」の項の235ページで次のように記しています。

[少なくとも、軍事クーデターをともなった武臣の政治進出は、文臣優位の伝統を揺るがし、実力本位の風潮を生んで、良賎の身分秩序をも揺り動かすに至った。

李義旼は父が商人、母が寺婢であり、崔竩の母も私婢であった。金俊は父が私奴で、自らも当初は奴隷身分だった。

本来、こうした出自の者は、政治的な栄達の道を閉ざされた存在だったが、それが最高権力者の地位にまで昇りつめたのである。]

崔竩は崔氏政権が4代続いた最後の執権者です。執権者である彼の父が私婢に生ませた子が崔竩です。崔氏政権では奴婢の子が最高権力者になっています。

それは権力者が奴婢である女性に子を生ませ、その子を権力の地位に就けたことが挙げられます。金俊は崔氏政権をクーデターにより倒した人物です。武臣政権の執権者たちは、男女の間には奴婢も貴族も無かったようです。

このようにして武臣政権で奴婢から最高権力者が誕生した事は高麗の下層民を刺激して、民衆の反乱の引き金になりました。