雑賀(さいか)衆

妻の煕子と、娘の倫を待たしてある麓の茶屋に立ち寄った後、紀ノ川の北岸沿いに下って雑賀荘に入った。雑賀衆は雑賀荘、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷の五つの地域の地侍たちで構成されており、それぞれが一つの惣国一揆(そうこくいっき)をなしていた。

その中で十ヶ郷の鈴木氏が総統で、鈴木氏の党首重秀がその当時鈴木孫一を名乗っていたが、これは「雑賀衆」の中の「雑賀党鈴木氏」という一族の有力者が継承してゆく名前だった。

雑賀衆は応仁の乱後、紀伊国と河内国の守護大名であった畠山氏の要請に応じて、近畿地方の各地を転戦し、次第に傭兵的な集団として成長していった。

種子島に鉄砲が伝来すると、根来衆に続いて、雑賀衆もいち早く鉄砲を取り入れ、自己製造を始め、戦闘に取り入れていった。

何といっても雑賀衆の強みは、交易船を持っていることだった。鉄砲は造れても、肝心の火薬の製造はその頃の日本では無理だった。雑賀衆は、交易船で九州や遠くはルソンにまで出向き、硝薬(しょうやく)を手に入れていた。

近くの根来寺を本拠とする根来衆は真言宗徒だったが、雑賀衆はほとんどが石山本願寺を本拠とする一向宗徒だったが、必ずしも一枚岩ではなく、それぞれが場合に応じてそれぞれの大名に与していた。

鈴木氏の城は、紀ノ川の川口に近い北岸にあった。紀ノ川から水路にて城内まで水を引き込み、城の周囲を堀とし、桟橋が方々に設えてあり、大型の交易船が幾艘(いくそう)も横付けされていた。

堀の奥まった所に粗末な木製の太鼓橋が掛かっており、その先が搦め手門と成っていた、橋は、いざという時には何時でも簡単に打ち壊されるように成っていた。