三浦政太郎

政太郎は三浦謹之助(一八六四~一九五○)の門弟として、三浦内科医局の副手となり、さきざき助手、医局長と昇進が保証されていた。同姓であるため親族かと間違えられるほど信望があったから、政太郎が噂の環と交際していることは間もなく三浦教授のもとに医局員や医学生からもたらされた。

三浦謹之助は他人の風聞に興味を示さないところがあったので、最初さして気にもとめていなかったが、どこそこで二人を見かけたとか、何かと政太郎と環の交際が医局の話題になるにおよんで彼を呼び、研究への専念を指示したが、その後一向に話題は止まなかった。

やがて、茶屋での密会との新聞記事がでた上、政太郎と環の結婚話が噂になると、三浦内科の恥曝しと大変な騒ぎとなり、結局政太郎は三浦内科を辞めざるを得なくなる。

同じ頃、環も辞表を出して東京音楽学校助教授を棒に振る。

破鏡の身であるヴァンプの環が真面目な学究の政太郎を誘惑したという見方が医局員らの一致したところであり、政太郎にその非を悔い三浦教授に陳謝するよう同僚たちはすすめたが、本人が潔白なら世評などどうでもよいとする学者肌の彼は弁解もしないまま明治四十二年四月辞任し、三浦教授の心証を著しく傷つけた。

常に向かうところ敵なしとする政太郎への期待は、この時点で学界からも親族からもはたまた社会からも陰り出すことを、夢多い彼は気付くことがなかった。ヨーロッパ留学を念頭におく彼の才覚は東京帝国大学医科の権威もさほどの比重とはならず、渡航費捻出のため、同年六月英領シンガポールで邦人の経営するゴム植林地の嘱託医として赴任する。