それに先立ち、環の父猛甫は、郷里の習慣に従い内祝言を申入れ、藤平は三浦家の前途に賭してこの申し出を受け入れた。記念写真に収まるフロックコート姿の政太郎は三十一歳でありこの時の充実感溢れるきりっとした表情は彼の肖像写真の最良のものといえよう。この時環は二十六歳、振袖に角隠し姿も初々しく、先ごろまでの東京音楽学校助教授のイメージは浮かんでこない。

政太郎の留守中、環は帝国劇場のプリマドンナとして活躍することになるが、千葉秀甫が彼女の一切のマネージメントを引受ける立場をとり、その関係が醜聞となって広まる。環に執拗に迫る秀甫から逃れ、突如帝劇の舞台から姿を消した環に新聞は雲隠れ、神隠しとその行方を追うが巷説紛々として定まらなかった。

環は《釈迦》上演を終って明治四十五年の七月、政太郎が一時帰国した折、静岡市内の三浦の親戚に身をひそめていたところから連れ立って神戸から台湾経由でシンガポールに出奔している。

シンガポール島の三五(みつい)公司ゴム園の診療所で政太郎は三ヶ年を過ごしたが、環とさらに一ヶ年を過ごすことになる。この間在欧の友人から洋行を促す手紙も届き、年賀の葉書も残っており、環にもこの時期の日記が珍しく残っている。日記は博文館の当用日記に丸みのある流麗な筆致ですらすらと書かれている。

ピアノを月賦で買い、午前中はピアノや声楽のレッスンまた政太郎からはドイツ語、フランス語を教わっている。

環は政太郎を君様と書き、政太郎がよく熱を出したり、頭痛を訴えたりしていることを書いている。

三月二十六日君様がやせておるとの玉置奥様のお言葉に私、急に心配になって来た。あしたは早起きしてマーケットに行っておいしいものを買って君様にさし上げやうと思った。

政太郎たちは大正二年(一九一三)の五月二十六日に帰国して環の母登波の弟後藤佐一郎の借家に住むこととなるが仲睦まじい二人のもとへシンガポール在の玉置順子から麴町区中六番町五一番地の三浦環子様と認められた大正三年の年賀状が届いている。

帰国後の秋九月二十八日に二人は政太郎の実家で晴れて婚礼の式を挙げる。結婚式に招かれた村の人達は「帝劇といふ有難い舞台ぶッて来た嫁さまァ、俺が村の稲の出来と一対の自慢じゃ」と花嫁の評判は上々で曽我村原川の稔る秋を賑わした。

※本記事は、2020年10月刊行の書籍『新版 考証 三浦環』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。