美沙の夫の翔一郎が「あ! 蚊が」と思わず叫んだ。

航空会社支店長は落ち着いた声で「蚊はおります」と応えた。一同は思わず苦笑した。蚊がすべてマラリアの媒体の蚊ではない。なんと臆病な者たち。新参者の教員チームは一瞬にして自分たちがある種の畏れを持ってここへ到着したことを見破られてしまったと思った。

だが、そのことを偉そうに説明するでもなく「蚊はおります」とにこやかに言ってその場の雰囲気を和らげた航空会社支店長の風格は新参者たちに大きな安心感を与えた。

エレベーターで無事二階から一階まで降りた。入国審査は外国人枠に並び、パスポート片手に係官の前に立つ。一人ひとりの審査に長い時間がかかり、これほどパスポートの裏も表も何度もひっくり返してまじまじと眺める図は珍しいとアジアにちょっと旅行しただけの知識でも、美沙には異様に感じられた。夫の次に並んでいたので、無愛想につっ立っていた翔一郎を見ながら、美沙は初めてここで会話するインド人に思い切り笑顔で接しようと決めていた。

「ハロー」と、明るい声で挨拶して、にこやかな表情で相手を見た。係官は相好一つ崩さず、美沙が差し出したパスポートを片手で開き、胡散臭そうに美沙を見返していた。「デリーは甘くない」と美沙が感じた瞬間だった。

到着ロビーを抜けて預けた荷物の出てくるターンテーブルに向かう。既にインド人のスタッフが何人もいて、それが各家族に三人ずつあてがわれ、二人はカートを、一人は回ってくる荷物を持ち主に確認してもらいながら、順調に取得していった。キビキビと動き、にこやかな笑みまで美沙たちに向けて、一家に二台の大きなカートに積まれたトランクや成田空港で超過料金をかなり支払って持ち込んだ、ダンボール箱数個を出口に向かって押して行った。

そのあとをなるべく間をあけないように注意されながら、先ほどの日本の領事の方がこれまた厳しい顔になって、次々と到着ゲートに誘ってくれた。何人ものインド人係員がその荷物をじっと見守る姿を見て、「そうだ怪しまれて、そこで荷物検査に引っ掛からないための緊張感だ」と新参者にもわかった。

幸いどの荷物も引き止められることもなく、無事出口を出た。

そこでは真夜中一時半を過ぎていたが驚くほどたくさんのインド人に息を呑んだ。匂いも、日本とは全く違って、異臭ではないが、これがインドの匂いと印象付けられる、得たいの知れないものが流れていた。
 

※本記事は、2021年1月刊行の書籍『アンのように生きる インドにて』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。