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千葉秀甫

さて明治四十二年の夏ごろ、環の前夫藤井善一が離婚後、富士見町の旅館で彼女と再会し同郷の三浦政太郎とまちがえられて新聞にゴシップ記事が出た。

この「雨の日の相合傘」の記事を書いたのが報知新聞記者の千葉秀甫(明治四十四年頃から秀甫を用いるので本論もそれに倣う)であると環は思いこんでおり、この記事が彼と環の出会いのきっかけとなった。

この環のいう報知新聞の記事を捜すべく国立国会図書館の新聞閲覧室でマイクロフィルムを丹念に相当な根気強さで調べてみたが見つけることができず、彼が報知新聞の記者を名乗って記事を書いたかどうかは確証が得られなかった。

古谷綱正(一九一二〜一九八九)は秀甫を国際新聞協会員千葉秀峰としているが、語学に堪能な彼は外国語教授の傍ら外電や海外情報等の翻訳をし嘱託記者の立場で報知新聞社に関係していたとも考えられる。(39)(40)

秀甫は語学生から畏怖されるほどの才覚でドイツ語の千葉先生として夙に有名であった。