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千葉秀甫

三浦(柴田)環の業績のひとつとして、『世界のオペラ』の出版がある。

堀内敬三は『音楽五十年史』の中で、明治後期になって初めて音楽鑑賞に関する書籍が現れたことを述べている。(35)

その理由として、日露戦争以前には未だ洋楽の聴衆がなく、洋楽に関わる者は教師ばかりであったので、教科書や教授参考書以外に音楽書というものは考えられなかった。

そこで一般の人が洋楽に近づいてくると、技術以外の方面から音楽を説いたものが要求され、その中でよく読まれた啓蒙書として東儀鉄笛の『音楽通解』(明治四十年)、細貝邦太郎・有沢潤共著『泰西音楽大家伝』(明治四十年)そして、柴田環『世界のオペラ』(明治四十五年)の三冊を挙げている。(36)世界のオペラ』は大正十二年の関東大震災前、既に第五版(刷)を出版したほどの売れゆきで、音楽書としては異例であった。

この柴田環著五七三ページという分厚い『世界のオペラ』のゴースト・ライターとして千葉秀甫の名前が、初めて文献上で明らかにされたのは、環の没した翌年に「音楽芸術」が〈三浦環追憶〉を特集して、座談会を開いた席上で四谷左門(一九○一~一九七九)が語ったからである。

この書については、誰もが柴田環の著作として疑うことなく彼女の才覚のしからしむる成果として認められたことは後にも記するところである。

しかし、環は生涯を通じて、この書について唯の一度も語ることがなかった。また、環は千葉秀甫との関係に触れられることも避けており、このことが彼女を理解する上のひとっの手がかりとなる。

劇作家の中野実(一九○一〜一九七三)は千葉秀甫に着目し、瀬戸内晴美が三浦環取材のため同氏を訪れた時、環の愛人として千葉秀甫の名を挙げた。瀬戸内は『お蝶夫人』の作中で、才智、計策ともに自信をもっ男秀甫と、性愛に酔いしれる女としての環を艶めかしくも心躍る舞台に登場させ、『世界のオペラ』出現の経緯を物語る。

私が調査を始めた頃、千葉秀甫の文献探索についての手がかりは少なく、書誌、索引の類で見出し得たものは『新聞集成明治編年史』索引中の千葉秀浦(奈曽一)のみであった。(37)

索引の該当箇所には明治三十八年四月二十五日「国民新聞」掲載記事として、本郷座上演演目である「髯一つ」の訳者として名が見出された。

このことで千葉秀浦が共訳者青柳有美(一八七三~一九四五)と同世代の翻訳家である見当がついたのでひきつづき人物調査の基本データとなる生没年について静岡県立中央図書館の閲覧可能な限りの文献を時間をかけて探索したが結果は徒労に終った。