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サルコリーと《カバレリア・ルスティカーナ》

大正時代浅草のロイヤル会館での歌手養成、また歌劇協会の指導などわが国楽壇の草分けとして多くの歌手を輩出させた。

その中には、三浦環を筆頭に、関屋敏子(一九〇四〜一九四一)、原信子(一八九三〜一九七九)、奥田良三(一九○三~一九九三)、ベルトラメリ・能子(一九〇三~一九七二)、小林千代子(一九一三~一九七六)や丸山徳子(※1)(一九一一~二〇一四)などシェナ会のメンバーをあげることができる。

サルコリーは昭和十一年(一九三六)三月十二日慶応病院で死去、多摩墓地に埋葬された。六十九歳であった。環がイタリアから帰国後有島生馬と共に病院に見舞った時は既に昏睡状態であった。

彼の手をとって《カバレリア・ルスチカーサ》から〈ノンノ・トゥリッドウ〉の数小節を歌うとその目が奇跡的に、パッと開いたという。環の両眼からは涙があふれ、その時の感動のシーンは未だに忘れられないと環の門弟、寺脇さわ(一九○○〜一九八四)は語っている。(29)

ユンケルと《熊野》

帝国劇場はユンケルに舞台上演のための新作歌劇《熊野》の作曲を依頼、明治四十五年二月に柴田環が主役となって上演された。

「熊野」は「平家物語」巻十「海道下」に題材を求めた能楽の名作で、作者については世阿弥と推定されている。平宗盛の愛妾熊野が朝顔によって故郷遠江からもたらされた老母の病状を案じ一目会いたいと暇を乞うが許されず、宗盛に従い花見車の人となる。

主人公熊野のもつ慎ましい心情が桜花を介して巧みに描かれている。山田流箏曲や長唄(明治二十七年)にも作曲された日本人好みの作品である。

帝劇はこの国民的古典の筋書をオペラ形式で上演すべく、既にオペラ的発想で制作されていた杉谷代水(一八七四〜一九一五)の台本に、東儀鉄笛(一八六九〜一九二五)が作曲した叙事唱歌「熊野」に着目し、代水に作詞を、作曲を専属のユンケルに依頼したもので、ユンケルのピアノ譜はウェルクマイスターによって管弦楽に編曲された。(30)(31)

《熊野》一幕ものの出だしは次のようである。

オーケストラにて陰欝なる前楽を奏する事暫時幕徐々に上る。